ー地震・雷・火事・オヤジではなく…ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はこう仰せられる。『見よ。わたしはバビロンとその住民に対し、破壊する者の霊を奮い立たせ、他国人たちをバビロンに送る。彼らはこれを吹き散らし、その国を滅ぼす。彼らは、わざわいの日に、四方からこれを攻める。』射手には弓を張らせ、よろいを着けてこれを襲わせよ。そこの若い男を惜しむことなく、その全軍を聖絶せよ。刺し殺された者たちが、カルデヤ人の国に倒れ、突き刺された者たちが、そのちまたに倒れる。しかし、イスラエルもユダも、その神、万軍の主から、決して見捨てられない。彼らの国は、イスラエルの聖なる方にそむいた罪に満ちていたが。バビロンの中から逃げ、それぞれ自分のいのちを救え。バビロンの咎のために断ち滅ぼされるな。これこそ、主の復讐の時、報いを主が返される。バビロンは主の御手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲んで、酔いしれた。たちまち、バビロンは倒れて砕かれた。このために泣きわめけ。その痛みのために乳香を取れ。あるいはいやされるかもしれない。私たちは、バビロンをいやそうとしたのに、それはいやされなかった。私たちはこれを見捨てて、おのおの自分の国へ帰ろう。バビロンへの罰は、天に達し、大空まで上ったからだ。主は、私たちの正義の主張を明らかにされた。来たれ。私たちはシオンで、私たちの神、主のみわざを語ろう。矢をとぎ、丸い小盾を取れ。主はメディヤ人の王たちの霊を奮い立たせられた。主の御思いは、バビロンを滅ぼすこと。それは主の復讐、その宮のための復讐である。バビロンの城壁に向かって旗を揚げよ。見張りを強くし、番兵を立てよ。伏兵を備えよ。主ははかりごとを立て、バビロンの住民について語られたことを実行されたからだ。大水のほとりに住む財宝豊かな者よ。あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た。万軍の主はご自分をさして誓って言われた。『必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。』主は、御力をもって地を造り、知恵をもって世界を堅く建て、英知をもって天を張られた。主が声を出すと、水のざわめきが天に起こる。主は地の果てから雲を上らせ、雨のためにいなずまを造り、その倉から風を出される。すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる。ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である。」

エレミヤ書51章1−19節

 

一昔前は、怖いものの象徴として、地震・雷・火事・オヤジ、などと挙げられていましたが、私たちは恐れるべき方を間違えてはいけない。脅かす、とかそういうことではなく、神様は素晴らしくすべ治められる。だから私たちがこの方のうちにいるなら、何も恐れることはない。神様こそ主、そのように告白し、この方が導かれる日々を期待し、信じ、成し遂げられることを待ち望もう。たとえ、今は苦難の中にあろうとも。

 

さて、↑は北イスラエル王国がBC722年にアッシリヤに捕囚され、またいま南ユダはバビロン帝国の危機にさらされていた、そんな時代に神様が預言者エレミヤを通して語られた言葉です。ユダヤはダビデの家系、ソロモンの子孫、血筋としても立派、しかし、血筋がどうの、ではなく、神様の養いの内に生きるからこそ、私たちは本当の生きたものになる。私たちが神様の家族とされるときこそ、ほんとうの意味で生きたものとなる。感謝なことなのです。

 

しかし彼らは神様よりも外交、異国の存在もしない、息もしない、自分で動けもしない、偶像を崇拝し神様から離れ続け、ついにはバビロン帝国に捕囚されていきます。神様は罰せられた、逆らったから?違う。そこに命がないことを知り、神様に立ち返り、回復していくことを神様は願っていた。↑はバビロンへの裁きの忠告。神様は、バビロンに捕囚された民のために多くの助け手を送られた。預言者だったり、高官にイスラエル人を置くことで民を守ったり。

 

私たちは周りのことに恐れますが、その前に神様を恐れる、神様に信頼しようではありませんか。私たちは気づかないだけで、神様は私たちを見捨ててなどいない。ビビれ、というわけではありませんよ?恐れる、ということは。それは神様を神様とすること。この神様の心を我が心とし、信頼し、従い歩む。底には神様の素晴らしい御技、栄光が現されるのです。

 

バビロンだってその彼らを通して神様に立ち返るチャンスは何度もあった。しかし、彼らは最後まで逆らい、ペルシャ帝国によって討ち滅ぼされる。↑の預言が成就するのです。いや、神様がさせてくださった。

 

ただ面白いことに、神様はバビロンを滅ぼす手段として他国人を送られますが、その他の手段として、主に仕える御使いたちも動員されるのです。御使いたちは、私たちを助ける役割がありますが、私たちは神様を知るすべはいくらでもある。↑では「声」「水」「雲」「雨」「いなずま」「風」「火」といったことばが出てきますが、全て御使いを通して神様は私たちに主こそ神様であることを知らせ、私たちが立ち返り、命を得ることを何より願っておられる。

 

だから、バビロンにも立ち返るチャンスが、苦難の中にある南ユダに対しても神様は助け手を、捕囚前から捕囚中、解放に至るまでいつも助け手を備え、助けてくださっていた。↑神様の御力を持ってすべ治め、固く立て、この天をもはられ、その御声、宣言をもって神様の御業がなる。それこそ、「光よ、あれ」と言うと光ができたように。神様はその言葉を持ってこの天地万物を造られた。

 

神様の語られる言葉には力があり、虚しく帰ってくることはない。またそれは形、行動となって現されるのです。私たちは、神様がエレミヤを通して語られた「すべての人間は愚かで無知だ。すべての金細工人は、偶像のために恥を見る。その鋳た像は偽りで、その中に息がないからだ。それは、むなしいもの、物笑いの種だ。刑罰の時に、それらは滅びる」ようなものであってはいけない。愚かで無知だからこそ、私たちには神様が必要なのです。神様に立ち返る時、その続き、「ヤコブの分け前はこんなものではない。主は万物を造る方。イスラエルは主ご自身の部族。その御名は万軍の主である」と、神様の分け前を受けるのです。

 

ある人は神は夢の産物、人の「想像」物だと考える。しかし神様はリアルに存在する方。神様が、私達のうちにその喜びを、命を、御心をもってあなたを広げ、また建てあげてくださるのです。おろかで無知、息のないもの、恥を見るものではなく、むしろその恥を知って生きよう。無知なことを恥じるのではなく、むしろ無知だからこそ、神様を恐れ、神様の命に生かされよう。神様は具体的にあなたの内に目に見えても見えなくても、その御業を、御心をもって建てあげてくださるから。

 

神様はその分け前の証として、御子イエス様を人として生まれさせてくださった。ただの御使いではない、神の御子イエス様を私たちと同じ人間、罪を犯さない点を除いて全く同じにされて、その見心、愛を、見える形、見えなくても命へ導かれた。それだけではない、一番肝心な、私たちの罪を取り除くべく、十字架に身代わりに私達の罪を背負われ身代わりに死なれた。しかし3日めによみがえられたことによって、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪は赦され、神様の子とされる、その特権を与えられる。その特権故に、御子イエス様の命という分け前とともに復活のイエス様があなたを建てあげられる、新しい助け主なる聖霊様があなたの内に働かれる。

 

何という喜びだろう。私たちが恐れるべきはなにか?自分が神様から離れ命を失っているものであるということこそ最大の悲しみ、それを知り、神様に立ち返り、この命を得よう。神様のくださる一つ一つの恵みに生きよう。