「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方。私はいつもあなたを賛美しています。私は多くの人にとっては奇蹟と思われました。あなたが、私の力強い避け所だからです。私の口には一日中、あなたの賛美と、あなたの光栄が満ちています。年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。私の敵が私のことを話し合い、私のいのちをつけねらう者どもが共にたくらんでいるからです。彼らはこう言っています。『神は彼を見捨てたのだ。追いかけて、彼を捕らえよ。救い出す者はいないから。』神よ。私から遠く離れないでください。わが神よ。急いで私を助けてください。私をなじる者どもが恥を見、消えうせますように。私を痛めつけようとする者どもが、そしりと侮辱で、おおわれますように。しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう。私の口は一日中、あなたの義と、あなたの救いを語り告げましょう。私は、その全部を知ってはおりませんが。神なる主よ。私は、あなたの大能のわざを携えて行き、あなたの義を、ただあなただけを心に留めましょう。神よ。あなたは、私の若いころから、私を教えてくださいました。私は今もなお、あなたの奇しいわざを告げ知らせています。年老いて、しらがになっていても、神よ、私を捨てないでください。私はなおも、あなたの力を次の世代に、あなたの大能のわざを、後に来るすべての者に告げ知らせます。神よ。あなたの義は天にまで届きます。あなたは大いなることをなさいました。神よ。だれが、あなたと比べられましょうか。あなたは私を多くの苦しみと悩みとに、会わせなさいましたが、私を再び生き返らせ、地の深みから、再び私を引き上げてくださいます。あなたが私の偉大さを増し、ふり向いて私を慰めてくださいますように。私もまた、六弦の立琴をもって、あなたをほめたたえます。わが神よ。あなたのまことを。イスラエルの聖なる方よ。私は、立琴をもって、あなたにほめ歌を歌います。私があなたにほめ歌を歌うとき、私のくちびるは、高らかに歌います。また、あなたが贖い出された私のたましいも。私の舌もまた、一日中、あなたの義を言い表わしましょう。…」
詩篇71篇6-24節
一生、一緒にいてくれや、どこかの歌で聞いたフレーズ。じゃあ一生ってどこからでしょうね。出会ったときから?気に入っている間だけ?一緒にいる時間だけで、他の時間は?神様は私たちを愛し、寝ずの番をされ、私たちの叫びを聞き、祈りを聞き、あなたを心配されると言うか、字のごとく、心を配られています。その神様のくださる一つ一つの愛を受け、私たちは生きようではありませんか。
さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王ダビデの残した詩の一つ。ダビデはソロモンと違い、多くの戦いがあった。サムエル記で見ておわかりの通り、彼は兄弟の末っ子として生まれ、兄たちからは小さく見られ、ゴリや手を打倒し王宮に召し上げられるも、王の嫉妬により追いかけ回され、命を狙われ、さらには息子にクーデターを起こされ国を追われることもあった。普通に考えるなら、なぜ神様は自分を愛しているのにこんな事があるんだ?神様がいるならなぜ?
これ、私たち人間の多くが思う所。しかし、ダビデはこう告白します。「神なる主よ。あなたは、私の若いころからの私の望み、私の信頼の的です。私は生まれたときから、あなたにいだかれています。あなたは私を母の胎から取り上げた方」と。なぜそこまで彼ののぞみは、ソロモンのような外交的戦略ではなく、神様、目に見えない神様にあるのか。それは、彼が生まれる前、お母さんの胎内にいた頃から神様が組み立てられ、その目を見、ご計画され、命を与えてくださった。
皆さんは自分のアイデンティティをどのようにとらえているでしょうか。あなたは何者ですか?あなたは神様ブランドなんですよ?冷静に考えれば人の成り立ちの中で、どんなに頑張っても魂は造ることはできません。生きることはできません。神様があなたに生を与え、取り上げてくださるのです。まあ助産婦云々とか言われそうですが、霊は人は作れません、命は人は作れません。神様がこれは与えてくださるものなのです。細かいことを上げていったらきりがないのでそれはまた別な機会で。
この命は神様が与えてくださったものです。その責任を神様は負ってくださっている。これもこれまで書いてきましたが、私たちは自分の手で、何も持って生まれてくることはできませんし、育てる親があって初めて生きていける、成長していくのです。私たちはどんな状況下にあっても神様に生かされている、これ以上の大きな奇跡はない。癒やしとか、それは受ければ嬉しいですよ?でも人生の成功でも富でもなんでも、そんなものが神様にまさることができるでしょうか。神様があなたを養われ、着飾らせ、導かれる、神様ご自身のなさる一つ一つが奇跡なのです、あなたに注がれる。
更にダビデは苦境の中でこのように歌います。「年老いた時も、私を見放さないでください。私の力の衰え果てたとき、私を見捨てないでください。私の敵が私のことを話し合い、私のいのちをつけねらう者どもが共にたくらんでいるからです。彼らはこう言っています。『神は彼を見捨てたのだ。追いかけて、彼を捕らえよ。救い出す者はいないから。』神よ。私から遠く離れないでください。わが神よ。急いで私を助けてください。私をなじる者どもが恥を見、消えうせますように。私を痛めつけようとする者どもが、そしりと侮辱で、おおわれますように。しかし、私自身は絶えずあなたを待ち望み、いよいよ切に、あなたを賛美しましょう」と。
私たちが衰え果てるようなときでも、疲れ切ったときも、頼るのは神様なのです。力となられるのです。どんなに他の人の目には、神様に見捨てられたんだ、と言われる状況にみえても、あなたの心の声が、そう訴えても、神様は遠く離れ無視される方ではなく、あなたを助け出されます。どんな形か走りません、私は神様ではないですから。ただ、あなたに神様は善をなしたいのです。神様は善にして全なる方なのです。神様は大逆転を起こされるのです。世の中のどんな富も名声も力も神様にまさることはできません。どんな苦難、死の谷間を歩むようなときであっても、神様はあなたと共にあり、導き出されるのです。
神様の義は、その御心、御業は、昨日見たように私たちの図り知れるものではありません。天にまで届く大いなる愛を持ってあなたを養い導かれる、生まれる前から生まれ、年老いて、天に行くその日まで。神様は、どんな地の深みからもすくい上げてくださる。
私たちは神様から離れ、世の底、地の深みにまで降る。しかし、神様はあなたを引き上げるため、見小イエス様を遠くではなく同じ人間として生まれさせてくださり、神様の目から見たら本当に深み、底まで下り、あなたに愛を現そうとされた。しかしそれだけではなく、更に罵られ、裏切られようとも私たちを見捨てず、私達の罪を身代わりに引き受けられ、十字架にかかられ、死なれた。しかし3日めに蘇らされたことによって、地の深み、神様から永遠に断絶される歯から命へと移し替える、引き上げられる、髪様の恵みの中に、復活の恵みに、罪の奴隷ではなく神様の子、家族へと引き上げられ、その特権を受けるのです。
神様は、あなたと一生一緒にいてくださるべく、いや、資して後に至るまでその永遠の愛を表すべく御子イエス様の命さえ惜しまず与えられた。そこまでされてまで取り戻されたあなたへの神様のなさることに欠けなどあるだろうか、いやない。神様のこの命がけの愛、これがあなたを覆う。私たちも、この神様の愛から離れることなく、この愛に生かされ、歩もう。底にはあなたの心の楽器をかき鳴らし喜ぶほどの恵みが待っているから。どんなときであろうとも。