「兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。しかし、信仰による義はこう言います。『あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを引き降ろすことです。また、『だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。』それはキリストを死者の中から引き上げることです。では、どう言っていますか。『みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。』これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。」
ローマ人への手紙10章1-13節
これまで生きてきた中で、まだ41年ではありますが、様々な悩みを持つ人と出会ってきました。そして中には死んだらどうなるんだろう?どうしたら救われるのだろうか?と真剣に悩む人も。そうして考えていたときに↑の箇所をいつも思い出す。人の努力によって私たちが救われるのではなく、希望を持つのではなく、神様が救い、神様が希望を与えてくださる。私たちは口先だけで、または心だけでイエス様を知っているつもりにならず、全人格を持ってイエス様を求め続けよう。
さて、↑は紀元1世紀、イエスキリスト様が十字架に架かられ死なれ、3日めによみがえられ、後、天に昇られた後、12弟子を含め、様々な人達がイエス様の福音を伝えていった。かつてキリスト教徒を迫害していたパウロも。そのパウロの残した手紙の一部。
パウロは↑のように書いていますが、かれこそ律法というものに生きてきた。守っているつもり。でも心は伴っていない。教える、でも本質的に自分の思う神様像を押し付けているだけで本当の神様の愛はわかっていなかった。だから、彼は救い主を求めていた。ただ、最初はイエス様を救い主とは信じられなかったから。気にかけられるものは呪われている(神様に)と言う律法を思って、十字架にかかったイエス様など救い主のはずがない、と思っていた。
でも、イエス様は遠く離れていなかった。彼の心は神様を求めているつもりで遠かった。何も神様の恵み、本当の救いを知らなかった。だから神様は御子イエス様を人として生まれさせてくださり、最も近くなられた、私たちと。罪を犯さない以外全く同じような人間となって。同じ重荷を負い、同じようにへりくだり、貧しくなられ、しかしどんなに罵られようとその愛を表し続けた。最後は私たちが神様から遠く放され死にゆくことがないよう、私たちの罪の身代わりに十字架に架かられ、死なれたのです。しかし3日めによみがえられたことによって、救いの道が完成された。
自分が神様から離れていること、罪の中にいることを知り、悔い改めこの十字架にあって神様に立ち返るなら、あなたは神様のことされる。その特権が与えられる。そこにこそ、まさに希望があるのです。ここには失望に終わらせない。どんな辛い日でも、元気な日でも、復活のイエス様があなたのうちに住まわれ、共に導かれ、歩んでくださる。口先だけではなく、心からあなたを愛するイエス様が。命をかけられたイエス様が。
イエス様は、迫害者パウロを許すため、悔い改めに導き、命を得させるため、この迫害者をさばくのではなく、救うために彼に出会われた。知識としてではなく、実際に。神様の愛に区別はない。神様を呼び求めるものは「誰でも」救われるのです。霊的に、罪の中から、そして、私たちが陥る闇の中からさえ、神様の希望へと導き出される。
希望は、人から出るのではない、救いは人から出るのではい、この十字架から溢れ流れる、あなたに向かい。そしてこれは尽きることがない。私たちはこの尽きることのないイエス様の愛に感謝しイエス様の十字架にある希望に生かされ、歩もう。あなたの希望ではない、神様が与えてくださる希望にあって。
