ーもっともっと…何を求める?ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ソロモン王は、パロの娘のほかに多くの外国の女、すなわちモアブ人の女、アモン人の女、エドム人の女、シドン人の女、ヘテ人の女を愛した。この女たちは、主がかつてイスラエル人に、『あなたがたは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる』と言われたその国々の者であった。それなのに、ソロモンは彼女たちを愛して、離れなかった。彼には七百人の王妃としての妻と、三百人のそばめがあった。その妻たちが彼の心を転じた。ソロモンが年をとったとき、その妻たちが彼の心をほかの神々のほうへ向けたので、彼の心は、父ダビデの心とは違って、彼の神、主と全く一つにはなっていなかった。ソロモンはシドン人の神アシュタロテと、アモン人のあの忌むべきミルコムに従った。こうしてソロモンは、主の目の前に悪を行ない、父ダビデのようには、主に従い通さなかった。当時、ソロモンは、モアブの、忌むべきケモシュと、アモン人の、忌むべきモレクのために、エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。彼は外国人の自分のすべての妻のためにも、同じようなことをしたので、彼女たちは自分たちの神々に香をたき、いけにえをささげた。主はソロモンに怒りを発せられた。それは彼の心がイスラエルの神、主から移り変わったからである。主は二度も彼に現われ、このことについて、ほかの神々に従って行ってはならないと命じておられたのに、彼は主の命令を守らなかったからである。それゆえ、主はソロモンに仰せられた。『あなたがこのようにふるまい、わたしが命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、わたしは王国をあなたから必ず引き裂いて、あなたの家来に与える。しかし、あなたの父ダビデに免じて、あなたの存命中は、そうしないが、あなたの子の手からそれを引き裂こう。ただし、王国全部を引き裂くのではなく、わたしのしもべダビデと、わたしが選んだエルサレムのために、一つの部族だけをあなたの子に与えよう。』」

Ⅰ列王記11章1−13節

 

人の欲望というのは止まらない。うまく行けばもっともっと、と。うまく行かなくても、次こそは、勝つまでは…と失敗した私の兄。恥ずかしくてとても書ける内容ではないのですが。でも、それはきりがない。止まらない。私たちは何を求めるか、神様をもっともっと求め続けよう。神様はあなたにとっての善を成し遂げられるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンの治世での出来事。ここから平和なはずのイスラエルが、徐々に崩れていきます。それはそうです。王自身が神様から離れていったのだから。神様が彼を通してその栄光を現される、それなのに神様から離れて平和は保てない。私たちもそうですよ?神様が、私たちの内に働かれ生かされる、建てあげて下さる、その手を別な何かに委ねてしまったら、神様があなたに用意されている最高のあるべき姿、形を失う。

 

話は戻して、彼には↑にある通り、七百人の王妃としての妻と、三百人の妾がいました。一体どれだけ?と問いかけたいところですが。一つは外交的な側面がありますが、それにしてもこの数はありえない。欲望の数、満足のいかない数、神様への不信頼の数、それがまさに現れていた。足りない、だから別な何かを求めよう、一時満たされた、でもまた物足りなくなりまた求める、そうして積み重なったのがこの1000人です。欲望、それは妾が300もいた、というところにもみえてくるでしょう。

 

神様は、「あなたがたは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをもあなたがたの中に入れてはならない。さもないと、彼らは必ずあなたがたの心を転じて彼らの神々に従わせる」とずっとイスラエルに忠告していた。心を転じさせる、と。人の心は弱い、かんたんに転ぶ。だからこそ、私たちは神様が必要なのです。ちなみに↑に登場するモアブは、彼の先祖にいます。モアブの女性が神様を求め、彼女は受け入れられ、その子孫からダビデが生まれ、その子供ソロモンが生まれた。

 

神様は、「彼らの中に入っていってはならない」と言っている。人それぞれ価値観を持っている。でも、あなたの内側を支配させてはいけないのです。また、彼らの中に入っていく、それは民族、国的な問題を超えて、その価値観の中にどっぷり浸かる、また、これを自身に取り入れる、それが危険なのです。私たちは、人が造られた時、神様の息吹が吹き込まれた事によって「生きたものとなった」のです。私たちは神様の息吹の中に生き、神様の息吹を求める。そうして私たちは生かされるのです。生きるのです。神様が、あなたを祝福されるのです。

 

私の努力でもっともっとと成果を求めても、それはあなたの力の範囲。しかし、神様が建てあげてくださるなら、それは無限に広がる。私たちの想像を遥かに超えた、深さ、高さ、長さ、ありとあらゆる、人の価値では測れない御心を、御業をなしてくださるのです。

 

ソロモンは彼女たち、1000人の女性たちを愛して、離れなかった。神様を愛するのではなく、この女性たちを愛していた。なら、どちらを優先させますか?価値が違う時。ソロモンは彼らの価値観を受け入れた。彼らが自分たちの神(存在はしませんが信仰している)を礼拝する場所を作って欲しいと言って、その場所を設けた。だめとわかっていても、彼女たちの心が離れるのが怖かった。

 

これ、いかにだめな男なのか、女性はもとより男性でもわかるでしょう。こうなったらもう、自分というものがなくなります。の後、ソロモンの息子レハブアムによって王国は分裂し、北と南に別れ、北イスラエルは後にアッシリヤ帝国に、南ユダでさえ最後はバビロンによって捕囚されていく。引き裂かれていく。なんと悲しく、また虚しい話だろう。

 

私たちは何をもっともっとと求めているだろうか。成功?名誉?しかし神様が与えてくださる恵み以上に優れたものはない。なぜなら、それは人の努力によって得るものではなく、神様から出るものだからです。私たちの心が弱いことは先程も書きましたが、だからこそ、あなたを引き裂くものではなく、あなたを活かす神様のもとに入っていくべきではないでしょうか。

 

本来私たちは↑の神様から受け入れてはいけないと言われた部族たちのように、この罪故にその恵みの中に入れていただくことなど赦されない存在だった。しかし、神様から引き離されるはずだった私たち、後にソロモンの子孫レハブアムにもう一族助けとして加えられ、また神様と人をつなげるレビ人を与えたように神様は、私たちにそれでも御手を伸ばされているのです。

 

その部族の代わりに神様は御子イエス様をお与えになりました、私たちに。そしてその愛を存分に現された、どんなに罵られようとも見捨てることはなかった。また、このまま孤立し、死にゆく私たちを救うために、もう一度神様と一つとさせていただくために、神様の家族に帰れるよう、私たちの罪を身代わりにイエス様に背負わせ、十字架にかけ、死なせたのです。しかしイエス様が3日めによみがえられたことによって、イエス様の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を許し、神様のことされる、その特権を与えられるのです。

 

神様は、この世、思い煩い、罪、サタンに従わせられ、支配されることを決して望まず、見小イエス様さえ惜しまなかった。その命さえ惜しまなかった。この神様の愛をあなたは共同受け止めるだろうか。むしろ私達はそこからイエス様の愛を受け、転じて神様に立ち返ろうではありませんか。この神様の御心を、もっともっと、と求めて以降ではありませんか。神様のくださる恵みはソロモンが足りない足りない、と求めた1000人の女性たちとはわけが違う。あなたを命の道へと転じさせてくださる。罪から赦し、死から命へ。復活のイエス様があなたと共にあなたを再建していってくださる。失わせるのではなく。今日、この神様に立ち返り、この命の内を歩もうではありませんか。