「こうして、ソロモンは、この祈りと願いをことごとく主にささげ終わった。彼はそれまで、ひざまずいて、両手を天に差し伸ばしていた主の祭壇の前から立ち上がり、まっすぐ立って、イスラエルの全集団を大声で祝福して言った。『約束どおり、ご自分の民イスラエルに安住の地をお与えになった主はほむべきかな。しもべモーセを通して告げられた良い約束はみな、一つもたがわなかった。私たちの神、主は、私たちの先祖とともにおられたように、私たちとともにいて、私たちを見放さず、私たちを見捨てられませんように。私たちの心を主に傾けさせ、私たちが主のすべての道に歩み、私たちの先祖にお命じになった命令と、おきてと、定めとを守るようにさせてください。私が主の御前で願ったことばが、昼も夜も、私たちの神、主のみそば近くにあって、日常のことにおいても、しもべの言い分や、御民イスラエルの言い分を正しく聞き入れてくださいますように。地上のすべての国々の民が、主こそ神であり、ほかに神はないことを知るようになるためです。あなたがたは、私たちの神、主と心を全く一つにし、主のおきてに歩み、今日のように、主の命令を守らなければならない。』それから、王と王のそばにいたイスラエル人はみな、主の前にいけにえをささげた。ソロモンは主へのいけにえとして和解のいけにえをささげた。すなわち牛二万二千頭と羊十二万頭。こうして、王とすべてのイスラエル人は主の宮を奉献した。その日、王は主の神殿の前の庭の中央部を聖別し、そこで、全焼のいけにえと、穀物のささげ物と、和解のいけにえの脂肪とをささげた。主の前にあった青銅の祭壇は、全焼のいけにえと、穀物のささげ物と、和解のいけにえの脂肪とを受け入れるには小さすぎたからである。ソロモンは、このとき、彼とともにいた全イスラエル、すなわち、レボ・ハマテからエジプト川に至るまでの大集団といっしょに、七日と七日、すなわち十四日間、私たちの神、主の前で祭りを行なった。八日目に、彼は民を去らせた。民は王に祝福のことばを述べ、主がそのしもべダビデと、その民イスラエルとに下さったすべての恵みを喜び、心楽しく彼らの天幕へ帰って行った。」
Ⅰ列王記8章54−66節
最近の世の中もそうですが、誰か一人が頑張ったって意味がない。でも発信者は必要。と同時に、やはり心を一つにすること、これは本当に大事。妥協する、ということではない。心を一つにして神様を褒め称える。神様を求める、御心を求めていく、その時、神様の素晴らしさが溢れていくのではないか。そういう意味でもまず、私たちは神様と心を一つとさせていただき、その愛を持って世に仕え、愛するものであろうではありませんか。主にありて。
さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンが神様の赦しによりその神殿を建て、奉献式を執り行ったあとの行動。彼は神様に祈りを捧げた、人の顔色ではなく神様の御心を求めること、自分自身の罪を知り、赦しを求め和解を願うこと、義の太陽のように輝かせて下さる神様の救いの家を歩む事を、これまでの祈りの中でみてきました。
この祈りが終わった後、「両手を天に差し伸ばしていた主の祭壇の前から立ち上がり、まっすぐ立って、イスラエルの全集団を大声で祝福」しました。まあ祝福は本来祭司の役割でもあるのですが、昨日も見たように、神様の声、愛を、福音を自分自身のうちに留めて終わるのではなく、それを分かち合う必要があるのです。ソロモン一人頑張って神様神様、と求めてもそれだけでは足りない。もちろんそのたった一人も大事。でも他が堕落したら、全体が崩れていく。
ふとこの事を書いている時に思い出したのが、ソドムとゴモラの話。そこにはアブラハム、イスラエル民族の始祖的な人の甥、ロトがそこにいた。彼ら家族も一応神様を信じていた。そこで裁判官的な役割も持っていた。もちろんロトの言うことに耳を貸さなかった民の問題もある。でも、結局助かったのはロトとその娘2人だけ。他は誰一人として信じなかった。その前に神様の憐れみによってソドムとゴモラの街は敵から守られ、救われたのにも関わらず、その機会を逃してしまった。
たとえあなたが遣わされた場所、あなたの置かれた場所が辛い場所であったとしても、神様の御心がなることを切に祈り求めよう。神様の前にひざまずき、そこから立ち上がって、神様の愛が流れていくことを切に求めよう。その中に神様の御心が表されていく、だからこそ、私たちはいつも神様につながっている必要があるのではないでしょうか。ソロモンはこの先のショウで見ていくことになりますが、後に失敗していきます。いっときだけ神様の前にひざまずくのではなく、いつもいつも、主の前に謙遜に、聞き従うものでありたいものです。
話は戻して、祈りの後は今度は民を祝福しつつ、神様を褒め称えました。神様こそ神様。他にはいない、これまでの歴史、イスラエルの民は救われては離れ、窮地になれば求め、の繰り返し。神様の憐みを受ける価値などどこにあるのか?しかしそれでも神様は約束を違わなかった。もし違うとしたらそれは私たちが神様から離れることにほかならない。
だからこそ、ソロモンは神様に助けを求める。私たちは弱い、神様なしでは生きていけない。だからこそ、「地上のすべての国々の民が、主こそ神であり、ほかに神はないことを知るようになるためです。あなたがたは、私たちの神、主と心を全く一つにし、主のおきてに歩み、今日のように、主の命令を守らなければならない」と祈るのです。神様こそ主であること、他のこのような神はない(実際にいないのですが)ことを私達自身悟ることができるよう、神様に求めるのです。
私たちは弱い、だから神様なしには生きることはできない。だからこそ、神様との健全な関係が必要なのです。面白いことに、「あなたがたは、私たちの神、主と心を全く一つにし、主のおきてに歩み、今日のように、主の命令を守らなければならない」という部分、これは実は原文を見ると命令形ではない。すごく直訳すると、「主のおきてに歩むために、また主の命令を守るために、今日のように、あなたがたの心が私たちの神である主とひとつになるようにしましょう」と呼びかけているのです。神様が守ってくださる、だから私たちの心が神様と一つになり、それによって、私たちは神様にあって健全とされるのです。そこに神様の御心が働くのです。
ソロモンの祈りの最初に、誰の顔色をうかがうか?という話を分かち合いましたが、私たちの神様は憐れみ深く、また完全です。神様は、私たちを健全な、命にあふれるものにしたい、だからこそ、私たちは神様の御心に心を合わせるのです。この世と調子を合わせるのではなく。むしろそうしてこの世に神様の栄光が、未心がなることを願おうではありませんか。誰と心を一つにするのか、神様と一つにしていただくことによって、その祝福は溢れ流れる。平和がそこになるのです、主にありて。神様が、その命の源泉となる。あなたの魂、あなた自身野、そしてそこからあなたの置かれた、使わされている場所へ。
神様は、御子イエス様のいのちにあって私たちと和解させてくださりました。私たちの罪をイエス様に身代わりに背負わせ、身代わりに罰せられ。神様は私たちにそっぽを向くのではなく、十字架上で罵られるイエス様をおろし天に引き戻すのではなく、最後までその愛をあなたに、私たちに向けられた。そして3日めにイエス様がよみがえられたことによって、私たちの心を神様に向ける、立ち返るすべての人を神様のことしてくださる、その特権を与えてくださるのです。
この神様との和解にあって、「主がそのしもべダビデと、その民イスラエルとに下さったすべての恵みを喜び、心楽しく彼らの天幕へ帰って行った」とあるように、あなたをその全ての恵みをもって喜ばせ、心楽しませてくださる。今日、私たちは世に、サタンに心を奪われるのではなく、神様にある平安、健全な命の関係の中、歩ませていただこうではありませんか。