ーソロモン神殿の謎ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イスラエル人がエジプトの地を出てから四百八十年目、ソロモンがイスラエルの王となってから四年目のジブの月、すなわち第二の月に、ソロモンは主の家の建設に取りかかった。ソロモン王が主のために建設した神殿は、長さ六十キュビト、幅二十キュビト、高さ三十キュビトであった。神殿の本堂の前につく玄関は、長さが神殿の幅と同じ二十キュビト、幅が神殿の前方に十キュビトであった。神殿には格子を取りつけた窓を作った。さらに、神殿の壁の回り、つまり、本堂と内堂の回りの神殿の壁に脇屋を建て増しし、こうして階段式の脇間を造りめぐらした。脇屋の一階は幅五キュビト、二階は幅六キュビト、三階は幅七キュビトであった。それは、神殿の外側の回りの壁に段を作り、神殿の壁を梁でささえないようにするためであった。神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった。二階の脇間に通ずる入口は神殿の右側にあり、らせん階段で、二階に上り、二階から三階に上るようになっていた。彼は神殿を建て、これを完成するにあたって、神殿の天井を杉材のたるきと厚板でおおった。神殿の側面に脇屋を建てめぐらし、その各階の高さは五キュビトにして、これを杉材で神殿に固着させた。そのとき、ソロモンに次のような主のことばがあった。『あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない。』」

Ⅰ列王記6章1−13節

 

豪華絢爛で優美、ソロモン神殿はそんな評価が世の中でもされている。と入ってもバビロン捕囚で一度は破壊され、またローマ帝国に再建後にも破壊され、完全なソロモン神殿の再現は相当難しいようです。正確な設計図がどうも明確ではなく、ネット等やイメージ像で見るものは古代シリヤやカナンの神殿をもとに書かれたもののようです。でも本当の神殿は箱物だけできても意味がない。神様の祝福が溢れるからこそ、神様が住まわれるからこそ意味がある。私たちは神様とともに生きる、生きた神殿を建てあげていただこうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモン王の治世で建て上げられたソロモン神殿の話。もちろん、当時は先代ダビデ王の準備したもの、資金、資材、技術者、そのイメージ、ヴィジョンはすでにあったので、造れるのは言うまでもありません。ただ、昨日も分かち合いましたが、私たちの神殿というか、人生を建て上げる一つ一つは、神様が備えてくださる。必要を常に備えてくださっている、その事を忘れてはいけない。どんなにかけがあろうと、足りない、と思って自分で勝手に変えるのではなく、今も、これからも導かれる神様に信頼したいものです。

 

話は横道にそれましたが、↑を見ると結構かんたんに建てられたように見えますが、実際は7年半かかっています。我が家の隣の敷地に新しくアパートみたいなのが立ったのですが、これは半年もかかっていません。まあもちろん当時のサイズの違いや施工技術との違いはあるにしても、相当に慎重に建て上げられたようです。

 

聖書に馴染みのない方や、読んでいてもどれくらいだっけ?という単位、キュビトというのが出てきますが、1キュビトは約44cmだそうです。とすると、ソロモン神殿は長さ約26.4m、幅は約8.8m、高さ約13.2mになります。ちなみにノアの箱舟は長さ約132m、幅は約22m、高さ約13.2mだそうで、ノアの箱舟がいかにすごいサイズだったかがわかりますね。

 

それにしても不思議なのは、その施工方法。面白いことに、現代の施工方法と少し似ているところがあって、「神殿は、建てるとき、石切り場で完全に仕上げられた石で建てられたので、工事中、槌や、斧、その他、鉄の道具の音は、いっさい神殿の中では聞かれなかった」というのです。

 

現代もある程度できたものを現場で組み上げる、だから早いのかな、と思うのですが、神様の神殿なのに人の手を加えるの?とふと思うわけです。実は、神様に生贄を捧げる祭壇の石については、人の手を加えない、石の祭壇、それを造るために鉄も当ててはいけない、あるがままの自然の石をつかって建てるようにと、記されています。同じように神様を礼拝する祭壇、神殿、なんで違いがあるのかな?と思うわけです。人の手を加えて作る神殿、人の手を加えないで建てる祭壇。

 

この辺がソロモン神殿の謎なのですが、しかしここにはとても大きな意味がある。最初は言葉の違いかな?と思って調べてみたら、どちらも同じ言葉をつかっているんです。ゴメンナサイね、理系なものですからこういう検証って私は好きなもので。どちらも同じ、シャレーマーという言葉が使われているのですが、共に完全な、という意味があります。

 

人の手が加わった完全な石と、自然のあるがままの完全な石。後者は明らかに神様の被造物ですから言うまでもありませんが、前者、神殿に使われる人の手が加わった石というのは、不完全な状態であっても神様の知恵にあって、完全なる神様が住まわれる中にあって、ある意味で完全な状態へと変えられていくのではないでしょうか。

 

私たちは誰しもが不完全です。こんな事を言われてムカっとくる方がいるかも知れませんが、わかるでしょう?胸に手を当ててみれば。私たちがどんなにありのままでいいんだ、と思っても、そこに神様の命はない。神様を求めない限り。そもそも人が作られた時、神様の息吹が吹き込まれて初めて人は生きたものとなった、とあるように、神様のいのちにあって私たちは生きるのです。神様なしでは生きることはできません。

 

事実、どんなにソロモン神殿が物理的に完成しても、神様はこう仰られた。「あなたが建てているこの神殿については、もし、あなたがわたしのおきてに歩み、わたしの定めを行ない、わたしのすべての命令を守り、これによって歩むなら、わたしがあなたの父ダビデにあなたについて約束したことを成就しよう。わたしはイスラエルの子らのただ中に住み、わたしの民イスラエルを捨てることはしない」と。

 

簡単に言うと、神様に従い歩む時に、神様がダビデに約束された祝福が溢れる。神様もまた彼らとともに住まわれその神殿は神様の栄光で輝く。一方で先の時代でみていきますが、神様から離れていった王たちはその祝福を失い、神殿の栄光も見る影もなくなっていく。

 

私たちは不完全である意味いいんです。その不完全な私たちを神様は憐れまれ、世に、思い煩いに、罪に傷つき倒れる私たちを本来神様がイメージされていた最高の姿に回復させるため、完全なる石、神の御子イエス様が私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ、死なれたのです。そして3日めによみがえられたことによって、新しいあなたへと建てあげてくださる。

 

不完全だった私たちが完全なるイエス様のいのちと合わさり、神様が住まわれる、聖霊様の宮と変えられていく。神様が日々、あなたを建て上げ、導かれていくのです。キリストの似姿へと。神様はどんな時にあろうともあなたを見捨てることはされない。御子イエス様の命を惜しまず与えるほどに愛される神様が日々私たちを形を整え組み上げてくださる、なんと感謝なことだろう。

 

だからこそ、私たちは神様と神殿で、この新しい命にあって、ここは私の場所だ、ここはあなたの場所だ、と争うのではなく、神様にある平和が、いのちがあなたの内を支配するよう、いやそれだけではなくそこから神様の栄光が、いのちが溢れることを切に願い求めようではありませんか。神様はあなたを親しい関係に、平和で命ある関係に招くために、新しくするために御子イエス様にあってあなたを招かれた。今日あなたはこの招きにどう答えるだろうか。