ー変えていい事と変えてはいけない事ー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、ツロの王ヒラムは、ソロモンが油をそそがれ、彼の父に代わって王となったことを聞いて、自分の家来たちをソロモンのところへ遣わした。ヒラムはダビデといつも友情を保っていたからである。そこで、ソロモンはヒラムのもとに人をやって言わせた。『あなたがご存じのように、私の父ダビデは、彼の回りからいつも戦いをいどまれていたため、主が彼らを私の足の裏の下に置かれるまで、彼の神、主の名のために宮を建てることができませんでした。ところが、今、私の神、主は、周囲の者から守って、私に安息を与えてくださり、敵対する者もなく、わざわいを起こす者もありません。今、私は、私の神、主の名のために宮を建てようと思っています。主が私の父ダビデに『わたしが、あなたの代わりに、あなたの王座に着かせるあなたの子、彼がわたしの名のために宮を建てる』と言われたとおりです。どうか、私のために、レバノンから杉の木を切り出すように命じてください。私のしもべたちも、あなたのしもべたちといっしょに働きます。私はあなたのしもべたちに、あなたが言われるとおりの賃金を払います。ご存じのように、私たちの中にはシドン人のように木を切ることに熟練した者がいないのです。』ヒラムはソロモンの申し出を聞いて、非常に喜んで言った。『きょう、主はほむべきかな。このおびただしい民を治める知恵ある子をダビデに授けられたとは。』そして、ヒラムはソロモンのもとに人をやって言わせた。『あなたの申し送られたことを聞きました。私は、杉の木材ともみの木材なら、何なりとあなたのお望みどおりにいたしましょう。私のしもべたちはそれをレバノンから海へ下らせます。私はそれをいかだに組んで、海路、あなたが指定される場所まで送り、そこで、それを解かせましょう。あなたはそれを受け取ってください。それから、あなたは、私の一族に食物を与え、私の願いをかなえてください。』こうしてヒラムは、ソロモンに杉の木材ともみの木材とを彼の望むだけ与えた。そこで、ソロモンはヒラムに、その一族の食糧として、小麦二万コルを与え、また、上質のオリーブ油二十コルを与えた。ソロモンはこれだけの物を毎年ヒラムに与えた。主は約束どおり、ソロモンに知恵を賜わったので、ヒラムとソロモンとの間には平和が保たれ、ふたりは契約を結んだ。ソロモン王は全イスラエルから役務者を徴用した。役務者は三万人であった。ソロモンは彼らを一か月交替で、一万人ずつレバノンに送った。すなわち、一か月はレバノンに、二か月は家にいるようにした。役務長官はアドニラムであった。ソロモンには荷役人夫が七万人、山で石を切り出す者が八万人あった。そのほか、ソロモンには工事の監督をする者の長が三千三百人あって、工事に携わる者を指揮していた。王は、切り石を神殿の礎に据えるために、大きな石、高価な石を切り出すように命じた。ソロモンの建築師と、ヒラムの建築師と、ゲバル人たちは石を切り、宮を建てるために木材と石材とを準備した。」

Ⅰ列王記5章1−18節

 

時代とともに様々な規則、考え方など変わってくる。しかし時代とともに変わってしまうそれに一体どれだけの価値があるのだろう。神様は不変、それは神様の愛は完全だからです。神様のあなたへの愛は完全。だからこそ、私たちは神様への悔い改めという意味では態度を変える必要はある、でも神様への信仰は変えてはいけない、どんな状況にあろうと。そしてさらに神様に喜ばれるものへと作り変えられていくことを切に祈り願おうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国3代目の王ソロモンの治世での出来事。いよいよエルサレム神殿の建設に取り掛かろうとしているときです。もともと、ソロモンの父である先代ダビデ王が神殿建設を願っていたのですが、それはソロモンに委ねる、ダビデにはダビデで役割がある、と神様から導かれ、ダビデはこの神殿建設に必要な資材、資金、また彼の友人で、↑に登場するツロの王、ヒラムと契約を結ぶのでした。この辺のことは、もし興味があったら聖書の中の歴代誌を見ていただければもっと詳しく記録されています。

 

ヒラムは、王が変わったからといって態度を変えることはなかった。ダビデを通して受けた祝福は変わらない。時代が、王が変わったから、もう関係ない、ではない。私たちは神様に会って結ばれる、その関係において、豊かな祝福が溢れ流れるのです。私たちは人や状況、時代の変化を見ますが、神様を見上げよう、神様の計画、祝福は変わらない。神様を求めるものを無下にされることなど決してない。なぜならあなたは神様の最高傑作であり、愛する子だからです。

 

一方ソロモン、彼もまたツロの王への態度を変えることなく、王座でどんと座って待つわけでもなく、遣いを遣わして、ぜひ協力してほしい、と要請します。神殿で使われるレバノンの杉材を切り出すことにおいて、熟練した者がいない、でも同時に神様は彼に必要な助け手を与えてくださっていた。私は王だから、好きなものを造るんだ、父はエルサレム神殿を建てると計画したけど、私には関係ない、とはしなかった。神様が、ダビデを通してすべてを用意してくださった、神様が用意されている、それをどうして変えることができよう、やめることができよう。

 

ソロモンは自分が王なのだから、自分の好きな形にする、好き物で造る、とは考えず、ダビデを通して神様が見せたヴィジョンに従い、また用意されたものをそのまま使わせていただくことにしました。それは「神様が」与えてくださったヴィジョン、また助け手、必要なもの、それ以上のものはない、と確信したのです。知恵とは神様を求めること、と列王記に戻ってきて何度も分かち合っていますが、神様に祈り求めること、神様を求めることをやめてはいけない。

 

神殿、というと私たちには関係ないかもしれませんが、あなたという人を建てあげてくださるのはまさに神様の知恵。神様がすべての必要を満たし建てあげてくださる。だからこそ私たちは神様を求めることをやめてはいけない、その態度を状況、時代などによって変えてはいけない。神様のあなたへの愛は変わらない。もし変わったように感じるとしたら、どちらが変わってしまったのか、自分で設計図を書き換えて、神様のこれは気に食わないと別のものに置き換えていないか、もう一度考え、また立ち返ろう。

 

ソロモンとヒラムのように、「主は約束どおり、ソロモンに知恵を賜わったので、ヒラムとソロモンとの間には平和が保たれ、ふたりは契約を結んだ」とあるように、この神様を求めるという最高の知恵の中で、神様のみ心によって、御力によって、あなたの置かれた場に、神様にあって平和がなされる。祝福は溢れ流れるのです。

 

イエス様は聖書の中で何が大事ですか?と宗教家たちに問われた時、神様を愛すること、そして自分を愛するように隣人を愛すること、と答えられました。神様を求める、愛する、そこから、隣人を愛することが難しい、いかんともしがたい問題においてあるべき形へ、神様のみ心にかなう形へと導かれる、いや神様が助け手くださる、愛する心、どうしたらいいのかその知恵を、また力を。

 

神様は、あなたを愛しておられる。それは、私たちの罪、神様から離れ好き勝手に生きてきた、神様を神様ともしない私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかっれ死なれた。この十字架という知恵にあって、その愛にあって、イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を赦し神様と平和を結ばせていただける、神様のことされるという最高の契約を結ばせていただけるのです。

 

私たちは状況、時代において神様への態度を変えてはいけない。神様は決してこの契約においてあなたへの愛を、約束を変えたくはないのに、私たちが自ら変えてどうします?むしろ、神様の、御子イエス様にあって用意された最高の会い、道から、御心にあって生かされ、歩もう。日々作り変えていただき、神様に喜ばれる者へと、つくりかえていただこうではありませんか。