―君の名は― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。『向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、【なぜそんなことをするのか】と言う人があったら、【主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます】と言いなさい。』そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。『ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。』弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。『ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。』」

マルコによる福音書11章1-10節

 

祝福、それはどのように受けられるのだろう。よく結婚を祝福される、などと言われますが、そこには何の力もない、おめでとう、レベル。しかし、本当の祝福は、私たちが罪の縄目、暗闇から解き放たれ、神様の子とされる、その中に「神様ご自身が」あなたに祝福を注がれる。その恵みをあふれんばかりに。そのために御子イエス様を十字架にかける決断をされた。あなたを積みの縄目から解き放ち、命を得させるために。今日、あなたのもとに訪れる。このイエス様の呼びかけにどうあなたは応答するだろうか。

 

さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、人々と共に同じ重荷を背負い歩まれていた最後の1週間の日。ちなみに今日は棕櫚の主日というそうです。↑の棕櫚の葉を持ってイエス様をお迎えしたところからでしょうね。イエス様は何のために来られたのか。イエス様は名声を人々から得て、どこかの教祖みたいな存在になりたかった?いえ、それならもっと人々の気に入ることだけをし、語ったでしょう。しかし、イエス様は時に癒し、時に悔い改めに導き、時に厳しく叱責される。

 

しかも当時ローマ帝国に支配されたユダヤ(イスラエル)、人々はイエス様を、ローマ打倒のリーダー、ダビデの様に先頭に立って戦うリーダーを求めていた。↑に込められているイエス様を首都エルサレムに迎えた群衆の「いま来た、われらの父ダビデの国に」という言葉の裏にはまさにこの思いが込められていた。さあ、ダビデの様に先頭に立って、ローマ帝国から救ってください、と。

 

確かに実はこの時より数百年前、ゼカリヤという人を通してこのことは預言されていた。「シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。わたしは戦車をエフライムから、軍馬をエルサレムから絶やす。戦いの弓も断たれる。この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る。あなたについても、あなたとの契約の血によって、わたしはあなたの捕らわれ人を、水のない穴から解き放つ。望みを持つ捕らわれ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返す」と。

 

まさにロバに乗ってこられる、聖書をよく読んでいた当時の群衆はまさにこの救い主だ、と。ただ、彼らの中での救いの定義が違った。一時的な問題、悩み、痛みからの解放、それだけだった。彼らが求めていたのは、神様が、かつてアダムとエバが罪を犯したときに約束された救い主ではなかった。でも、「この方は諸国の民に平和を告げ、その支配は海から海へ、大川から地の果てに至る」とあるように、神様は平和を告げるために御子イエス様を遣わし、それは海から海へ、全世界へと広がっていく。

 

じゃあその平和って何?それは神様との和解の上に成り立つ。本来、それこそ軍の将としてくるならもっと立派な馬、軍馬などに乗ってくるのが正しい、威厳も違う。でも、ころば。そんなろばに乗って、なぜわざわざイエス様はエルサレムに来られたのか。それは、イエス様が来られたのは、ローマ帝国打倒のためではなく、神様との和解によって、平和をもたらすため、十字架にかかられ死なれるために来られたのです。自分が名誉を、栄誉を人から受けるために来られたのではない。むしろ、死ぬために来られた。

 

私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれることによって、いやそれだけではなく3日目によみがえられることによって、私たちを平和へ、救いの道へと、命の道へと導かれるのです。

 

あえて今日の分かち合いの中で前半部のロバの話を飛ばしましたが、つながれたろば、そこに訪れられたイエス様。イエス様はあなたをご入用なのです。ろばをつないでいた縄目から、あなたの罪の縄目から解き放ち、イエス様があなたと共にその十字架の道を進まれる。死から命へ。天の御国まで。あなたはこのイエス様を誰と呼ぶだろうか?今日、私たちはイエス様を救い主です、と告白し、このイエス様の導かれる道を共に歩ませていただこう。この世の名誉も栄誉も、この救いに勝るものなし。主がどんな時にも共におられる。そこは平和・祝福の道。あなたのために命さえ惜しまない方がたとえ死の影の谷間を歩むときも共におられるから。