―他にはない最高の恵み― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」

ガラテヤ人への手紙1章6-7節

 

世の中便利なものであふれ、目移りしやすい。物理学の法則の中には、時間とともに物事は衰退していく(弱るとか)というものがありますが、栄枯衰退、ついこの間まで優れていたはずのものも、今はそんなにすごくないね、と感じるようになっていくのはある意味でこの物理学の法則を別な意味で満たしているな、と思う。私たちはしかし、そのように移り変わっていくようなものに心を奪われ、支配されてはいけない。いつも変わることのない、神様の愛、恵みに生かされ、歩もう。

 

さて、↑は紀元1世紀、キリスト教の伝道者・使徒パウロが各地に書き送った手紙の一部です。このガラテヤ人への手紙、というのは本当に強烈なメッセージが込められていて、あまりに内容が濃すぎて、ある牧師は祈祷会でこのガラテヤ人への手紙を分かち合っていたとき1週間に1節しか進めないほどに1節1節に、パウロの思いが込められている。それはパウロの思想の押し付けではなく、神様の愛を知ってほしい、という熱意が込められているのです。

 

で、今日の部分は、「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです」ということ。それは、行いによって人は救われる、とか、割礼(男性のシンボルを覆う皮を切る)によって救われるとか、それらをイエス様の十字架によって成就された、イエス様の命にあって成就されたはずなのに、それを覆す教えに目移りか、戻ってしまうことをパウロは危惧しているわけです。

 

そもそも神の御子たるイエス様が、その罪人である私たちの友となるため、その友のために命を捨てる、これ以上大きな愛はありません。神様からいつも目移りし、離れていく、次々に帰るような私たちを、それでも見捨てず、途中でやめて天に帰るのではなく、最後まで十字架でその救いのため、贖いを全うされた。イエス様の恵みはそんな簡単に目移りする、代わりの利くちっぽけなものではないではありませんか。神の御子のいのち以上に何が必要ですか。イエス様は新で終わらずよみがえられ、死を死で終わらせず、この十字架の前に悔い改め立ち返るすべての人の罪を許し、神様と和解させてくださり、神様の子として特権を与えてくださる。

 

御子イエス様の命を持ってまで取り戻された、そこに神様のどれだけの恵みが、愛が込められているか、込められようとしているか、私たちは受け止めているだろうか。日本では特に、このことはこの神社、このことはあの神社、と神にはさも得意分野、不得意分野があるといわんばかりですが、そんなに目移りし、心変わりしなければいけないほど、神様のくださるものはちっぽけ?何か状況が変わればやめられるもの?

 

いえ、むしろ私たちこそが変わっているだけ、神様は日々日々私たちの内に愛を、恵みを、御心を現される、御力を注がれている、現在進行形であなたを導かれている、復活のイエス様があなたの内に住まわれ。神様は移り行く方ではない。あなたを今日も愛している。

 

世の中、私たちの心をかき乱し、神様を信じて何になる?と思わせる多くの事象がある。でも、神様の恵みは、あなたへの愛はそんなものにかき乱されない。私たちは御子イエス様の命を賭してでもあなたを結び付け(拘束する、という意味ではなく)その愛から離さない、と決められた神様に、心を結び付け、離れず、いつもこの神様に祈り、導かれ歩もう。あふれんばかりの恵みを、この身に受け。私たちもとっかえひっかえせず、神様から目を離すことなく、神様のなさる大いなる御業を見、従い、歩もう。