-すべきことをしただけです- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「使徒たちは主に言った。『私たちの信仰を増してください。』しかし主は言われた。『もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、【根こそぎ海の中に植われ】と言えば、言いつけどおりになるのです。ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、【さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい】としもべに言うでしょうか。かえって、【私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい】と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、【私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです】と言いなさい。』」

ルカによる福音書17章5-10節

 

人から褒められると、特に上司とかから褒められると、うれしいですよね。でも、そこで止まるのではなく、さらにステップアップしていきたいのが仕事。でも、仕事の話を超えて、私たちがしていることが、当たり前になってはいけない。むしろ神様の御心がなりますように、とさらに求めていこう。私を誇るのではなく、神様を褒めたたえよう。私が誇る時、それはそこで止まる。しかし、神様の御心を信じるとき、信頼し従う時、山は海にさえ移る。さて、あなたは誰を、何を誇り何を望むでしょう?

 

さて、↑は神の御子イエス様が弟子たち・使徒たちに語られた中の一部です。彼らはイエス様に信仰を増し加えてほしい、と願った。しかしここでイエス様は不思議な回答をされる。

 

「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです。ところで、あなたがたのだれかに、耕作か羊飼いをするしもべがいるとして、そのしもべが野らから帰って来たとき、『さあ、さあ、ここに来て、食事をしなさい』としもべに言うでしょうか。かえって、『私の食事の用意をし、帯を締めて私の食事が済むまで給仕しなさい。あとで、自分の食事をしなさい』と言わないでしょうか。しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか」と。

 

前半はなんとなくわかる。からしだねというのは、もっとも小さい者の象徴なのですがそれほどの信仰さえあれば、桑の木だって、根こそぎ海の中に植われ、と命じてその通りになる、と。ありえない話。でも、それをされるのは神様。それを信じるなら、神様の御心がなる。人にはできないことも神様にはできるのです。

 

信仰というのは、他の箇所では、望んでいる事柄を保証し、目に見えないことを確信する者である、とあります。自分の能力がどうのこうの、ではない、神様が驚くべきことを、今自分の周りでは信じられないような状況にあっても、苦難にあっても、それでも神様が成し遂げて下さる、その大きな木も動かして下さる、そう信じる、委ねること、その手を主の前に明け渡す事、これこそが大事なのです。

 

そうすると後半部分が、何の関係があるんだろう?と一見思う中でも見えてきます本来私たちは神様の御心がなる事を切に願い、そのお手伝いというか、役割が与えられている。だから当然すべきこと、という事ひとつの意味は、私たちが自分のお心、褒美、望む結果を求める事ではなく、神様の御心がなる事を願い、祈る。あなたの隣人のため、あなたのまわりのために祈り、また仕え、神様の栄光を求める。どんなに困難な状況下にあっても、私がそれを成し遂げるのではなく、神様が助けて下さるのです。そこに、自分が誇るべきことは何一つない。

 

最近仕事をしながら、与えられたことをやるのはある意味当然なんだな、と思う。でも、そこで自分が誇れば、そこで止まってしまってはその先は任せられない。もっと神様の御心がこの職場に広がることを願うばかり。パウロという人が手紙にこのように残した。「終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように」と。

 

自分だけが恵みを受けるのではなく、神様の御心が、御国が広がり、あがめられるよう祈ってください、とパウロは願った。そこなんです。もし神様の御心が、御国が広がれば、自分が誇って、そこで止まるのではなく、広がるのならば、なんとすばらしいことではないだろうか?それを私たちは願っているだろうか?私たちは神様のしもべに過ぎない。でも、私たちは謙遜になり、ただ神様の御心がなるよう祈ろう。また、仕えよう。その中に神様の御心が現されていく。山が海に入るような、桑の木が根こそぎ海に入り、植わるようなありえないことだって。

 

この神様の愛は大きいですよ?イエス様は、神様の愛を現すために。「なすべきことを」当然のようにされた。十字架に。なぜ私が?と思わず、どんなに裏切られても途中でその愛をやめることなくあなたを救うためにその命を身代わりに差し出された。そこまでされてまで動かされた神様と私たちの和解です。その和解された関係の内にどれだけ神様の愛が溢れているでしょう?

 

私たちは神様にあれしてもらってこれしてもらうことが当然、などと思ってはいないだろうか?むしろイエス様が当然のようにと言わんばかりにその命を差し出された、その愛の前にどうして私たちが尊大であれるだろう。むしろ復活のイエス様が住まわれ、現そうとされたその命の前に、愛の前に遜り、ひざまずき、受け取って当然、ではなく、感謝と喜びの涙をもって受け取ろうではありませんか。そして、このイエス様の御心の前に隠れ、この御心が現されていく事を切に祈り求めていこうではありませんか。