「さて、イエスは、朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、『みんながあなたを捜しております』と言った。イエスは彼らに言われた。『さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから。』こうしてイエスは、ガリラヤ全地にわたり、その会堂に行って、福音を告げ知らせ、悪霊を追い出された。」
マルコによる福音書1章35-39節
私たちに最も必要なものは?大切なものは何ですか?と聞かれたらあなたは何と答えるでしょう?お金?愛?成功?自身?これは心理学的な質問とは全く違うまじめな質問。というのも、私たちの内側に占めるものが私たちをある意味で生かすのです。神様はあなたの内に住周り、ご自身の命で満たしたい。あなたは何をあなたの内に求めますか?
さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ、その公生涯を歩み始められたころのこと。イエス様はいつも祈っていた。神の御子なのに?むしろイエス様は私たちの手本となり、私たちに必要なことを教えられた。神様は私たちの祈りを聞かれている、私たちはこの神様に祈り、御心を求める、御心に歩めるよう助けてください、と祈る事、これが大事。イエス様は無敵のヒーローとして来られたわけではなく、人間と同じ形をとってこられたわけなのです。様々な迫害もある。苦しみもある、だからこそ、私たちは祈る必要がある。私たちは一人では生きる事は出来ない。
そんなイエス様は、一か所に留まらなかった。大都会だけで伝道し、有名になろう、とかそんなことを考えなかった。ちなみにイエス様の弟たちはイエス様を大都会に行かせて、有名になればいいじゃないか、と変な勘違いをしていたこともあった。兄を変人に思ったり、逆にそのうまい汁でも吸おうとでも思っていたところがあったのかもしれない。
イエス様の行かれた特に↑に出てくるガリラヤはある意味で田舎。しかもガリラヤから何の良いものが出てこようか、と宗教家たちに言われるほど。そんなところで有名になってもしょうがない、とかそんなことをイエス様は思わなかった。というよりも、イエス様は有名になるために来られたのではない、先日の箇所では医者を必要としているのは病人、罪人をイエス様は救いに来られた、とあったとおり、イエス様の目的は私たちを救う、命を得させるために来られたのです。
多くの人が自分のある意味での救い主を求めている。イエス様かどうかは別ですが。たぶん多くの人が自分を救い出す何者かを求めている。↑の弟子たちの言葉の通り。物理的にイエス様を探している人たちもいましたが、それ以上に魂が渇いている。かけた何かを、失われた本来あるべき自分を回復、取り戻してほしい、それが彼らの願いであり、同時に私たちの願いではないか。
だから人は心理学とか、カウンセリング本とか様々なものを求める。自己啓発とか。でも、それで解決がつくならとっくの昔に解決できている。でも、私たちには神様が必要なのです。人が造られた時、神様がその息吹を吹き込まれ「生きたものとなった」とあるように、私たちはこの神様にあって生かされる。神様は命の息吹、いや神様自身をもって私たちを命に溢れさせたい、本来あるべき姿にしたいのです。
神様は人を造られたとき、ご自身のイメージに似せられて造られた、という。しかし、私たちは神様から離れてしまった。霊的なエデンの園から自ら離れていってしまった。でもその私たちを見捨てられず、イエス様は↑にあるように天より「出てこられた」のです。天で見ているだけ、助けを送る、そうではなく、自ら人となって救うために出てこられたのです。神の御子であられるのにそのありようを捨てられないとは考えず、私たちと同じように弱くなり、私たちの所に降りてこられた。
そのイエス様は、会堂で教えられていたといいますが、そこで2つのことをされた、という。福音と奇跡?実は福音を語ることと悪霊を追い出す事。奇跡が主目的ではなかった。それは、奇跡を通して神様の愛を示す、御心を現す、という事であって、主目的ではなかった。もっとたくさん奇跡を行って人を集める方が早い、と人は考える。教会でもそれが主目的になっているところがあって怖いのですが、福音、ここに全てがある。
じゃあなぜ悪霊を追い出す?まあこれは福音とセットなのですが、私たちという宮、家に、神殿に悪霊が住まわること、罪が住まわり支配することをイエス様は良しとされず、これを追い出され、聖めるという大きな目的があった。私たちの内側を占めるのはサタン・罪であってはならない、イエス様の命です。聖霊様です。
そのためイエス様はただ来られ、奇跡を行われたのではなく、それだけではなく私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれた。しかし3日目によみがえられたことによって、死んだ私たちの身や、私たちの内に住まわる痛み、悲しみ、苦しみ、何より罪・サタンを打ち砕き、追い出し、聖霊様の住まう宮とされた。新しくされたのです。本来あるべきあなたの姿を、神様の御心の姿へと回復させるために。
私たちがイエス様を求め、イエス様の十字架の前に立ち返るとき、私たちは命を得る。このイエス様があなたの神殿に住まわれ、聖霊様が豊かに働かれあなたを導かれる。私たちはこのイエス様の十字架、救いにあって、神様と和解させていただき、祈ることもまた赦された。私たちはこのイエス様についていこう。イエス様が出てこられ、あなたと共に歩むために命まで投げ出された、子の大いなる愛に生かされ。