ーわたしについて来なさいー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「イエスはまた湖のほとりに出て行かれた。すると群衆がみな、みもとにやって来たので、彼らに教えられた。イエスは、道を通りながら、アルパヨの子レビが収税所にすわっているのをご覧になって、『わたしについて来なさい』と言われた。すると彼は立ち上がって従った。それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである。パリサイ派の律法学者たちは、イエスが罪人や取税人たちといっしょに食事をしておられるのを見て、イエスの弟子たちにこう言った。『なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。』イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。『医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』」

マルコによる福音書2章13-17節

 

イエス様はどこか高みに留まり高みの見物をするのではなく、降ってこられた。神であられるのに人となってまで生まれてこられ、私たちを招くために来られた。それはだれしも。あなたに命の道へと招くために。私たちはイエス様を他人事ととらえるのではなく、あなたを他人と見なかったイエス様についていこうではありませんか。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が公生涯を歩まれていた中でのある日の出来事。イエス様の御もとにはたくさんの人が集まってきて、彼らにイエス様は教えておられた。そんなたくさんいる人の中で、収税所に座るレビ(マタイによる福音書をかいたマタイのこと)を見つけると、彼の話を聞くわけでもなく、ただ一言、「わたしについてきなさい」とおっしゃられた。レビとしては、は?何この人、と思いたくなるでしょう。しかし、彼はすぐに立ち上がり、従い、ついていき、さらにイエス様を彼の家に招くのでした。

 

そもそも彼の職業、取税人というのは当時のユダヤ人にとっては売国者と言ってもいい立場で、ユダヤを支配していたローマ帝国の間に立って、税金を集めるだけではなく、多めに集めて袖の下に入れていた。それはもう、いわゆる犯罪のようなものと言ってもいい、罪。

 

その彼にイエス様は出会われた。彼を裁きに?違う。イエス様は彼を探しに来られたのです。ご自身のもとに招きに来られたのです。彼はイエス様と出会ったとき一言も言っていない。でもイエス様は彼の思いを知っていた。その心の叫びを聞かれたイエス様は、そのような罪人だろうと関係ない、と彼をイエス様の恵みの内に招かれたのです。

 

そもそも、誰一人イエス様の恵みに与る資格のある人なんていない、みんな罪人、↑でイエス様は、「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」とおっしゃりましたが、そもそも、義人はいない、一人もいないのです。神様から離れ生きられる人などいない。神様から離れていく、神様を神様としない、それこそが罪なのだから、神様などいらないよ、私は正しい義人なんだから、と言っている時点でそれは罪。

 

↑のシーンで、いわゆる奇跡的なことをイエス様はされていない。でも、イエス様は奇跡ももちろん多く行われましたが、奇跡を見せて、ほら私はすごいでしょ、信じなさい、とどこかの教祖さんのようなことを詩に来られたわけではない。それなら、わざわざ人となって生まれてくる必要なんてない。でも、イエス様は、私たちと同じ道を歩み、同じ重荷を背負われ、私たちと一緒に、神様の恵み、いのちの道へと招こうとされたのです。

 

↑で、神様のことを知ったつもりでいる知ったかぶりをする宗教学者たちは、外からイエス様を馬鹿にする、なんで罪人と一緒に食事をするんだ(ユダヤの文化で一緒に食事をするという事は、その人を仲間として受け入れるという事を意味する。だから、罪人と一緒に食事をするという事は自分を罪人と言っているようなものともとれる)と他人事のようにイエス様を見ている。自分に何をもたらすんだ?と。

 

しかし、自分に何をもたらすのか、ではなく、私たちはイエス様がベストをもたらしてくださると信じ、「ついていく」これが大事なのではないでしょうか。私たちのためにイエス様は私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれた。しかし3日目によみがえられたことによって私たちを新しくしてくださった。罪人ではなく神様の子としてくださった、その特権を与えて下さった。

 

イエス様があれをしてくれるから信じる、あれをしてくれないから信じないのではない、イエス様が命をかけて、神様の恵みの道、いのちの道に引き上げ導いてくださるその道に、復活のイエス様についていくのです。あなたは一人ではなく、イエス様が一緒に進まれる。招かれるという事は招待状を出して終わりではない、イエス様が一緒に歩んでくださる、イエス様の御心が現されるその道にあなたを招かれたのです。

 

私たちがイエス様を招いたのではない、イエス様があなたを招いてくださっている。私たちが客人のように胡坐をかいて、足を組んで聞くのではなく、むしろイエス様の前にひれ伏し、このイエス様についていこう。このうちに留まろう。イエス様の御心をもって今日もイエス様はあなたを養い、導かれるから。命をかけるほどの愛をもって。今日、私たちは他人事のように見るのではなく、イエス様のもとに立ち返ろう。