-ずっと背負われている- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「『エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。』『正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。』『なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。』『わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。』私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。主は仰せられた。『まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ』と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。『羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。家畜が谷に下るように、主の御霊が彼らをいこわせた。』このようにして、あなたは、あなたの民を導き、あなたの輝かしい御名をあげられたのです。どうか、天から見おろし、聖なる輝かしい御住まいからご覧ください。あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか。まことに、あなたは私たちの父です。たとい、アブラハムが私たちを知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは、私たちの父です。あなたの御名は、とこしえから私たちの贖い主です。主よ。なぜあなたは、私たちをあなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを恐れないようにされるのですか。あなたのしもべたち、あなたのゆずりの地の部族のために、どうかお帰りください。…」

イザヤ書63章1-19節

 

神様は、私たちをずっと背負われ、導かれる。たとえ血を流すような苦しい日であろうとも、神様の救いは必ず来る。私たちが血を流す代わりに、イエス様が十字架で血を流し、命を差し出してまで救おうとあなたを愛されている。このことを私たちは忘れてはいけない。あなたをイエス様は今日も背負っておられる、という事を。

 

さて、↑はサムエル記からだいぶ先の時代の話。だからといってあながち無関係というわけではない。実は、昨日の続きの箇所で、シェバ=ベリアルという男が、せっかくダビデが復権し、国が再建されようという時に、権力を求め、ダビデからイスラエルの人々(前王サウル派、常に権力になびく、甘い汁を吸おうとしていた人たち)を引き離していく。そういう男が現れ、イスラエルを混乱に貶めます。

 

さらには、ダビデが新たな将軍に任命したアマサ将軍も、前将軍ヨアブの嫉妬によって暗殺されます。なかなかことはうまく運ばない。これは人間の目で見た視点。↑の時代も、北イスラエル王国はアッシリヤに、南ユダ王国はバビロンに捕囚されるという血の涙が流れるような預言がされた。預言というのは神様が預言者を通して語る事。神様にとってどれだけ民が苦しむことを良しとできるだろう?まあもうちょっというと、終わりの時の最後の戦いにかかわる話でもあるのですが。

 

↑でエドムという名前が出てきますが、この国はイスラエルの兄弟国でありながら、イスラエルが祝福されていく事を妬み攻撃を仕掛けていた国だった。ある意味では神様にとっては本来愛すべき存在だったはずなのに、離れられた子。どれだけ悲しかったことだろう。彼らがさらには兄弟国を攻めることもあって。ある意味では↑で預言されているように復讐となる。彼らが流す血、それが降りかかり。

 

私たちは↑の話を無関係には読めない。今の時代、多くの悲しみや苦労、戦いがある。血のにじむような、様々な問題が降りかかっている。ダビデもその生涯で多くの戦いがあった。20章に入っても悲しみがまだ続く。せっかく戦いが終わっても。

 

しかし、ぜひ私たちは↑を心にとめよう。「わたしの心のうちに復讐の日があり、わたしの贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。』私は、主の恵みと、主の奇しいみわざをほめ歌おう。主が私たちに報いてくださったすべての事について、そのあわれみと、豊かな恵みによって報いてくださったイスラエルの家への豊かないつくしみについて。主は仰せられた。『まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ』と。こうして、主は彼らの救い主になられた。彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた」。これは、私たちにとって他人事ではないから。

 

神様は、あなたを背負われている。神様が、あなたを支えておられる。あなたの苦しみを踏みつぶしてくださる。私たちの悲しみを身代わりに背負われ十字架で、私たちの血の代わりにご自身の血を、命を流された。どんなに裏切られ、罵られようとも、その御手を引っ込めることはなかった。どんなに偽りの子に見えても、エドムのような国であろうとも、彼らが命を得ることを何よりも願っておられるのです。

 

あなたは小さい頃、父か、母か、両親に抱っこされ、背負われた日を覚えているだろうか?この時どれだけ安心感をもたらされただろう。神様は、あなたの苦しみを知っている。だからこそ、どこか遠くで見ているのではなく、あなたの身近に来られ、あなたの父、神様となるために、御子イエス様にあなたの罪の代価を身代わりに背負われてまで取り戻された。罪に、サタンに復讐された。

 

そして復活と共に、神様に立ち返る全ての人を神様の子として迎え入れて下さる、その特権を与えて下さる。復活のイエス様があなたの内に住まわれ導かれ、神様の家族、食卓に私たちはつかせていただけるのです。

 

人は↑のように「あなたの熱心と、力あるみわざは、どこにあるのでしょう。私へのあなたのたぎる思いとあわれみを、あなたは押さえておられるのですか」と疑問に思う。しかし、イエス様の十字架以上に力ある御業は、熱心な愛はない。あなたへの憐みはない。

 

この十字架にあって、あなたの内に神様は熱心を成し遂げ、力ある御業を現される、たぎる思いと憐みを、私たちが押さえつけているだけで神様は存分にあなたに注ぎたいと、あなたを待っておられる。

 

この神様から頂いた憐み、命をもう、サタンに、罪に、悲しみに、痛みに支配させてはいけない。私たちは神様をだからこそ求め歩もう。神様の御心がなることを切に祈り願い歩もうではありませんか。あなたを神様から引き離そうとするものになびくのではなく、神様に依り頼み歩もう。