「ヨナタンとアヒマアツはエン・ロゲルにとどまっていたが、ひとりの女奴隷が行って彼らに告げ、彼らがダビデ王に告げに行くようになっていた。これは彼らが町に入るのを見られることのないためであった。ところが、ひとりの若者が彼らを見て、アブシャロムに告げた。そこで彼らふたりは急いで去り、バフリムに住むある人の家に行った。その人の庭に井戸があったので、彼らはその中に降りた。その人の妻は、おおいを持って来て、井戸の口の上に広げ、その上に麦をまき散らしたので、だれにも知られなかった。アブシャロムの家来たちが、その女の家に来て言った。『アヒマアツとヨナタンはどこにいるのか。』女は彼らに答えた。『あの人たちは、ここを通り過ぎて川のほうへ行きました。』彼らは、捜したが見つけることができなかったので、エルサレムへ帰った。彼らが去って後、ふたりは井戸から上がって来て、ダビデ王に知らせに行った。彼らはダビデに言った。『さあ、急いで川を渡ってください。アヒトフェルがあなたがたに対してこれこれのはかりごとを立てたからです。』そこで、ダビデと、ダビデのもとにいたすべての者たちとは出発して、ヨルダン川を渡った。夜明けまでにヨルダン川を渡りきれなかった者はひとりもいなかった。アヒトフェルは、自分のはかりごとが行なわれないのを見て、ろばに鞍を置き、自分の町の家に帰って行き、家を整理して、首をくくって死に、彼の父の墓に葬られた。…ダビデがマハナイムに来たとき、アモン人でラバの出のナハシュの子ショビと、ロ・デバルの出のアミエルの子マキルと、ログリムの出のギルアデ人バルジライとは、寝台、鉢、土器、小麦、大麦、小麦粉、炒り麦、そら豆、レンズ豆、炒り麦、蜂蜜、凝乳、羊、牛酪を、ダビデとその一行の食糧として持って来た。彼らは民が荒野で飢えて疲れ、渇いていると思ったからである。」
Ⅱサムエル記17章17-33節
人生山あり谷あり、うまくいくこともあればうまくいかないこともある。でも確かに言えることは、私たちがたとえ氏の谷間を行くときにも神様が共におられ、私たちに食卓を開き、養い、なお導かれる。神様の助けは必ず来る。ある。この確信に、今のこの時代だからこそ、ますますしっかり立ち、祈り、共に歩もう。
さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王ダビデの治世で、ダビデの息子アブシャロムがクーデターを起こしたときの出来事。アブシャロムは自分の妹を、腹違いの兄アムノンに辱められ、みじめな捨てられ方をし、それに怒って、ダビデに相談することなく、アムノンを殺し、ダビデの怒りを買って逃げた。でもダビデというか、ダビデの心に憐みの心を、将軍ヨアブを通して神様が起こさせ、アブシャロムは帰国するのでした。
しかし、神様の憐みがその背後にあったにもかかわらず、その状況を不遇、自分の罪さえ忘れていたアブシャロムは、民の心を盗み取りながらクーデターを起こし、ダビデは都落ちをします。ダビデは戦えば勝つこともできたでしょう。しかし彼はそれをせず、神様の導きに信頼し、国を発ったのでした。その彼を慕い、多くの友が駆け付けました。
しかし、彼の助けとなっていたアヒトフェルはダビデを裏切り、アブシャロムにつく。彼もまた自分の立場が神様にあって支えられていたこと、その知恵を与えられていたことを忘れ、自分を誇って、自分の地位をさらに高める存在はアブシャロムだろう、と乗り換えるのでした。
そして、彼はアブシャロムに進言し、12,000人の兵を与えてほしい、必ずダビデを打倒す、と誓いますが、同様に、アブシャロムのもとに「神様を通してダビデから」遣わされていたフシャイは、裏切りがばれて殺される可能性も恐れず、神様に信頼し、アブシャロムに留まり、さらに、アブシャロムこそ先頭に立って、その王としてのすばらしさを示すべきです、と進言し、アブシャロムはそれを採用します。そこから↑が始まります。
ただ、この作戦をダビデに告げに行く姿を見られてしまうのです。これはまずいことになります。そこで使者はある女性の家の井戸に隠れ、その女性は2人の味方、ダビデの味方をし、彼らを去らせます。なぜ?アブシャロムはこれから王になるかもしれない、恩を売っておいた方がいいのに。しかし、彼女が見ていたのは違った。神様を見ていた。神様がダビデを通してどれだけ素晴らしい栄光を現されていたか。
どんなに、この世が一時的な栄光をもって民の心を盗み取っても、逆に苦難をもって神様から引き離そうとしてもそれは一時的なものにすぎず、神様の御心だけがなる。神様のなされる栄光ある御業は他の何にも比べる事は出来ないのです。
アヒトフェルはこうして自分の案が採用されなかったショックで、自死した。なんとむなしい話だろう。でも、私は思うのは、彼にも悔い改め立ち返る、ダビデの元に帰る道を、フシャイを通して神様は与えていたのではないか、と思う。ダビデの方が正しい、いや彼の内に働く神様の御心こそが素晴らしいんだ、と立ち返る機会となった。しかし、彼は自分のプライドをあくまで守ろうとして、悔やみ、ついには自死に至った。せっかく神様から素晴らしい賜物、知恵を与えられていても、自分のために用いるのでは意味がない。
神様は、ダビデだけじゃない、アブシャロムにも憐みを示され立ち返る機会を与えた、裏切ったアヒトフェルにも。そういえばユダにも、最後まで愛を示しながら悔い改める機会をイエス様は与えておられました。しかし、彼は悔いて自死、同じように裏切ったペテロは悔い改めた。新しいものとされた。
神様は、いつでも最高を私たちに備え、与えようとされておられる。ダビデとしては、その密使の姿が見られたのは大ピンチ、しかし神様からの救いを止めるすべは誰も持っていない。驚くべきことに、ダビデたちとかつて争っていたアモン人が、「寝台、鉢、土器、小麦、大麦、小麦粉、炒り麦、そら豆、レンズ豆、炒り麦、蜂蜜、凝乳、羊、牛酪を、ダビデとその一行の食糧として持って来た」というのです。
神様は、あらゆる必要をいつでも備え、送ってくださっている。ただそれに私たちが気づくか、受け取るか、これによって全然違う。思わぬ形で、神様の御心は、御業はなる。必ずなる。あなたはこの確信ありますか?ダビデにとっては信じられないような出来事だったかもしれない。アブシャロムたちに示された憐みも信じられないこと。しかし神様はそれでも私たちが命を得ることを何より願っておられるのです。
私たちは暗闇の中にあるときに神様を疑うのではなく、神様の救いを待ち望もう。神様は、あなたに遅れることはない。あなたを救うためにと、なんと、敵対関係にあったはずのイスラエルとアモン人の関係どころじゃない、罪人たる私たちのために御子イエス様を人として、神としてのありようを捨てられないとは考えず生まれてこられ、その愛を、裏切ると分かっていても、注がれた。それだけじゃない、私たちの負うべき罪の代価、死を身代わりに背負われ十字架で罰せられ、死なれたのです。
しかし、3日目によみがえられた。死、罰して終わりではなくよみがえらされたことによって、神様は私たちと和解してくださった。イエス様の十字架の前に悔い改め立ち返る全ての人を神様の子として受け入れて下さったのです。あなたの苦難を、罪をすべて打ち砕き、新しいあなたとしてくださる、そしてもう一度神様の国、家族に招き入れてくださるのです。この後ダビデが国に帰っていくように。
神様のあなたへの救いは遅れることがない。命をかけてまであなたを愛される神様がどうしてあなたを見捨てることがあるだろう。どんなにアブシャロムのように一時的にあなたの心を奪うものがあっても、それはいつまでも続かない。最後に神様の大いなる御心があなたを覆い、導かれる。今日、私たちはこの神様の愛に生かされ、信頼し、歩もうではありませんか。ダビデの目に見えない中で神様の計画が進行していたように、あなたの目に見えない中にあっても神様はその御手を動かされているから。