「アブシャロムとすべての民、イスラエル人はエルサレムに入った。アヒトフェルもいっしょであった。ダビデの友アルキ人フシャイがアブシャロムのところに来たとき、フシャイはアブシャロムに言った。『王さま。ばんざい。王さま。ばんざい。』アブシャロムはフシャイに言った。『これが、あなたの友への忠誠のあらわれなのか。なぜ、あなたは、あなたの友といっしょに行かなかったのか。』フシャイはアブシャロムに答えた。『いいえ、主と、この民、イスラエルのすべての人々とが選んだ方に私はつき、その方といっしょにいたいのです。また、私はだれに仕えるべきでしょう。私の友の子に仕えるべきではありませんか。私はあなたの父上に仕えたように、あなたにもお仕えいたします。』それで、アブシャロムはアヒトフェルに言った。『あなたがたは相談して、われわれはどうしたらよいか、意見を述べなさい。』アヒトフェルはアブシャロムに言った。『父上が王宮の留守番に残したそばめたちのところにお入りください。全イスラエルが、あなたは父上に憎まれるようなことをされたと聞くなら、あなたに、くみする者はみな、勇気を出すでしょう。』こうしてアブシャロムのために屋上に天幕が張られ、アブシャロムは全イスラエルの目の前で、父のそばめたちのところに入った。当時、アヒトフェルの進言する助言は、人が神のことばを伺って得ることばのようであった。アヒトフェルの助言はみな、ダビデにもアブシャロムにもそのように思われた。」
Ⅱサムエル記16章15-23節
私たちは危機を迎えるときに、傍観者であってはいけない。もう仕方ないよね、とあきらめ眺める。しかし、私たちは神様の御心がなる事を切に願い、祈り求め、神様に導かれたことに従おう。この世と調子を合わせるものではなく、神様に調子を合わせ、その御心に従う者であろう。
さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王ダビデの治世での出来事。この時、ダビデはなんと、息子アブシャロムによってクーデターを起こされ、都落ちしてしまった。アブシャロムは自分の罪を忘れ、ダビデの温情を、いやか、神様の憐みを受けたにもかかわらずそれを忘れ、自分がさも不遇であるかのように感じ、民が王に持っていく陳情を自分の所で止め、その話を聞き、王は話を聞かない、変わった、やはりアブシャロムこそ王にふさわしい、と思わせた。民の心を盗み取った。
こうしてダビデは都落ちするも、↑で見るように自分の妾たちまで苦しい目に合わせてはいけない、と国に残し、またダビデの友人フシャイに、アブシャロムに仕えてほしい、と頼み、彼から情報が流れるようにした。そして結果として実はこのフシャイを通して神様はダビデを助ける事となる。
一方アヒトフェル、彼は本当に優れた知者だったことは↑の評価を見て、わかりますね。彼はダビデに仕えていたのに、ダビデを裏切り、アブシャロムについた。これを本当にダビデは悲しんだ。何とか彼の口から出る助言が、ダメな方向にいつも行くことを切にダビデが願うほどに。ただ、この祈りは確かに聞かれ、ここから彼の助言がことごとく裏目に出ていく事になるのですが。
こうしてダビデの目論見通り、友人フシャイはアブシャロムの懐に入り込むことに成功しました。王様万歳、とプライドをかなぐり捨ててでも。プライドがないことが悪いことではない。本来正しい事を行うために、外から傍観するのではなく、祈り求め、神様の御心を行っていく、これはとても大事なことだと思います。
神様を信じているから後はどうでもいいと外から見る。ないしこれは罪の世の中だからしょうがないよね、と諦める事はある意味で簡単。しかし世にひれ伏す、というよりも世に出ていき、あらゆる人に福音を延べ伝えるようにイエス様が仰られたように、私たちは、ただ外から見ているだけではなく、むしろ「出ていって」この御心を現す者である事を忘れてはいけないのです。
アヒトフェルのように、自分の地位を確保するために偉大なるイエスマンになれ、というわけでもありません。彼は本当にダビデが恐れるほどに優れた知性を持っていた。だから、ダビデの残した妾とアブシャロムが床を共にすることがどういう事を意味するのかよく分かっていたはず。それが罪であること、民の心をさらに恐れさせる事をも。
でもそれは正しいのか?彼の地位は、信用は確かに確保できたかもしれない。しかし、神様がダビデを通して彼に与えていた状況は素晴らしいものではなかったのか?神様が下さっているものを蔑ろにし始める時、神様が与えて下さる本来あるべきあなたの姿を失っていってしまうのです。
地位とかそういうレベルの問題ではない。神様は私たちにベストをいつも備えようとして、形作ろうとされている、その御心をもって、でもそれを蔑ろにして、どうして本来あるべきあなたになれるでしょう。
それは、アブシャロムがクーデターを起こした時も同じ。彼は確かに妹の復讐に、と兄アムノンを殺す。妹が辱められて何も思わない兄はいないだろう。しかしもしダビデに正直に話していれば結果は違っていた、というよりも神様が、彼らに慰めを与え、別な結果を与えていたのではないか。しかし、彼は復讐心だけをもってアムノンを殺し、逃げ、憐みによって連れ戻された。神様の憐みが彼の内にあった、でもそれを不遇として、クーデターを起こした。
そんなところに何が待っていますか。張りぼての偽の王。最後は、木に自慢の挑発が引っ掛かり、ダビデの将軍ヨアブに槍で刺し殺される。何と哀れな結果を迎えることになるのだろう。まあそれはまた先の話なのですが。ただ、ダビデは彼の死を悼み、私が彼の代わりに死ねばよかった、と自分を国から追い出したアブシャロムにそのように言うほど。アブシャロムが気づいていないだけで、ダビデは愛していた。沈黙しているようで、ダビデは愛していた。
神様は、私たちに対し時に沈黙されているように人は感じる。でも神様は私たちを愛していることは変わらないし忘れてはいけない。今の時代本当に多くの苦しみや苦難など様々ある。いつになったら収束するのか、安心できるのか、と不安になる。しかし、私たちはそこで、神様に見捨てられている、愛されていない、などと思ってはいけない。自分を不遇に扱われているなどと思ってはいけない。神様はあなたを愛しているのです。
救われたものがなぜ、未だにこの世に残され、苦しみの中に歩まなければいけない?と思う人もきっと多い。でも、私たちはダビデがフシャイをアブシャロムのもとに遣わしたように、神様から役割が与えられている、あなたにしかできない、あなたを通して神様は栄光を現したい。私たちは救われたからもういい、と傍観者になってはいけない。むしろ、苦しみの世だからしょうがないよね、とこの世の人たちと調子を合わせて諦めるのではなく、神様の御心を祈り聴き、なおそれに従う者であろう。
この世の偉大なるイエスマンではなく、神様に従う者であろう。神様は、別に強制的に従うように仕向けてはいない、follow meとおっしゃる。その時、私たちは神様の恵みを釣り取らせていただくものとなるのです。アヒトフェルのように、この世に調子を合わせ、行動するのではなく、神様の御心を常に祈り求め、行うものであろうではありませんか。
神様はあなたを愛していますよ?沈黙されません。あなたを救うためなら御子イエス様をあなたの罪の身代わりに十字架にかけ、死なせるほどに愛された。そうしてあなたが本来あるべきあなたとなるべく、神様の子として神様と和解し、回復し、命を得ることを何より願っている。そこまでされた神様がどうしてあなたをこの世にあって一人にするだろう?復活のイエス様があなたの内に住まわれ、導かれ続けるのです。
だからこそ、この回復した関係において、たとえ目に見えなく沈黙されているようにあっても、神様との関係において自分で沈黙せず、いつも神様の御心を祈り求め、祈るだけではなく、またこれに従う者であろう。