-知恵か?武力か?それとも?- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…王の家来たちは王に言った。『私たち、あなたの家来どもは、王さまの選ばれるままにいたします。』…王はガテ人イタイに言った。『どうして、あなたもわれわれといっしょに行くのか。戻って、あの王のところにとどまりなさい。あなたは外国人で、それに、あなたは、自分の国からの亡命者なのだから。あなたは、きのう来たばかりなのに、きょう、あなたをわれわれといっしょにさまよわせるに忍びない。私はこれから、あてどもなく旅を続けるのだから。あなたはあなたの同胞を連れて戻りなさい。恵みとまことが、あなたとともにあるように。』イタイは王に答えて言った。『主の前に誓います。王さまの前にも誓います。王さまがおられるところに、生きるためでも、死ぬためでも、しもべも必ず、そこにいます。』ダビデはイタイに言った。『それでは来なさい。』…王はツァドクに言った。『神の箱を町に戻しなさい。もし、私が主の恵みをいただくことができれば、主は、私を連れ戻し、神の箱とその住まいとを見せてくださろう。もし主が、【あなたはわたしの心にかなわない】と言われるなら、どうか、この私に主が良いと思われることをしてくださるように。』王は祭司ツァドクにまた言った。『先見者よ。あなたは安心して町に帰りなさい。あなたがたのふたりの子、あなたの子アヒマアツとエブヤタルの子ヨナタンも、あなたがたといっしょに。よく覚えていてもらいたい。私は、あなたがたから知らせのことばが来るまで、荒野の草原で、しばらく待とう。』…ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。…ダビデは、『アヒトフェルがアブシャロムの謀反に荷担している』という知らせを受けたが、そのとき、ダビデは言った。『主よ。どうかアヒトフェルの助言を愚かなものにしてください。』ダビデが、神を礼拝する場所になっていた山の頂に来た、ちょうどその時、アルキ人フシャイが上着を裂き、頭に土をかぶってダビデに会いに来た。ダビデは彼に言った。『もしあなたが、私といっしょに行くなら、あなたは私の重荷になる。しかしもし、あなたが町に戻って、アブシャロムに、『王よ。私はあなたのしもべになります。これまであなたの父上のしもべであったように、今、私はあなたのしもべになります』と言うなら、あなたは、私のために、アヒトフェルの助言を打ちこわすことになる。あそこには祭司のツァドクとエブヤタルも、あなたといっしょにいるではないか。あなたは王の家から聞くことは何でも、祭司のツァドクとエブヤタルに告げなければならない。それにあそこには、彼らのふたりの息子、ツァドクの子アヒマアツとエブヤタルの子ヨナタンがいる。彼らをよこして、あなたがたが聞いたことを残らず私に伝えてくれ。』…」

Ⅱサムエル記15章14-37節

 

本当の知恵は人を生かす。その本当の知恵は神様であり、またその知恵は神様の霊によって私たちに注がれる。私たちの知識によってあれこれ人を裁くのではなく、戦うのではなく、神様の知恵に生かされ歩もう。戦うべき相手はサタンであって、罪であって、神様の御言葉、神様自身ではない。私たちはこの神様という本当の知恵にあって生きよう。どんなに敗北したように見えても必ず神様はあなたを導かれるから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王ダビデの治世で、その息子アブシャロムが起こしたクーデターによって、国を追われたダビデの行動、やり取り。それが描かれています。アブシャロムは自分が罪を犯し、憐みによって、国に戻されたにも関わらず、神様の憐みを忘れ、自分が不遇にあっていると勝手に勘違いし、民が王に持っていく陳情を自分の所で止めて、聞き、民の心を盗み取って、クーデターを起こした。

 

ダビデは決してアブシャロムと武力で戦おうとはしませんでした。神様に従うダビデは、戦おうと思えばアブシャロムを打ち破る事は出来たと思います。ただ彼はしなかった。息子と戦いたくなかった。このクーデターの最後にアブシャロムはダビデの将軍ヨアブによって殺され終了するのですが、その際にも、自分がアブシャロムの代わりに殺されればよかった、と泣き叫んだ。

 

どんなに悪い事をしていてもダビデにとっては息子。神様にとっても、私たちがどんなに罪人であろうとも、神様は私たちを救わんといつでも救いの道を、御手を開かれている、その事を忘れてはいけない。自分の知恵で神様は何もしない、なぜこんな不遇、状態に自分を置くのだ、と自分の知識から神様と戦おうとすることをやめよう。神様はあなたを愛しておられる。

 

話は戻して、なぜダビデは武力をもって戦わなかったのか?アブシャロムが怖かった?民の心がアブシャロムになびいているから今やっても仕方ないから?違う。彼は神様に委ねた。神様はかつてこう約束されていた。「あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる」と。それは神様が彼を建て上げて下さる。どんなにアブシャロムが民の心を盗み取っても、そこに神様の御心がなければ最後は崩れ去る。ダビデは神様の前に委ねるのでした。自分の思いとは別に神様の御心と戦う事をやめた。

 

神様にその身を委ねた時、ダビデをしたい多くの友が彼についてきた。↑に何人か登場しますね。まずイタイ。彼は外人ですし、生活を保障する存在が欠かせない、そういう意味では今イスラエルで民の心を握っているアブシャロムにつく方が的確だし、自分の国に帰ることもできる。でも彼はダビデの内に神様が建て上げようとされるその国、御心の内に行きたい、とついていった。

 

次に祭司ツァドク、エブヤタル。彼らがダビデとともにいる、神の箱があるという事はダビデの王としての正当性を示すものとなる。でもダビデは、イスラエルから神様の祝福が失われていく事を望まず、彼らが神様に立ち返ることを何より望んだ。そして、何より神様が共におられ導かれる、この確信に立っていた。私たちを立たせる、立ち上がらせるのは、神様の知恵、神様に信頼する中にあって神様の御力が、霊が私たちを立ち上がらせ、導かれるのです。

 

そういう意味で次に出てくるアヒトフェル、この存在は大きい。彼はダビデの参謀だったのに、クーデターに加担した。自由でしょ?という人もいるかもしれない。でも、本当の助言というのは神様の知恵に裏付けされる。人を励ます言葉にしても何にしても神様に裏付けられる、神様なしには人を力づける事は出来ない、私たちは生きたものとならない。

 

イエス様の12弟子の一人、ヨハネはイエス様を「ことば」と表現された。イエス様の口から出る一つ一つの言葉にあって、私たちは生かされ、励まされ、人をもまた生かし、導き、また悔い改めに導く。命の道へと導かれるのです。私たちは誰につくのだろうか?

 

逆にダビデについてきたフシャイに、アブシャロムの部下になるように導きます。実は彼の活躍によって、ダビデは最終的に勝利を治めることになるのですが。いずれにしても、私たちは外にいるだけで、世に対して関心を払わず、祈らないでどうして、変わっていくだろう?私たち自身、救われているからもういい、とか考えず、私たちはいつでも神様の御心が、神様の知恵によって、成されていく事を祈るべきではないだろうか。

 

私たちは神様の憐みにあって生かされている。神様は御子イエス様の命を十字架に、私たちの罪の身代わりにかけ、死なせるほどに私たちを愛された。このイエス様の救いを受け取るとき、私たちはこのイエス様の命にあって保証されている。復活のイエス様があなたの内に住まわれ、その霊を注ぎ導かれる。

 

ダビデのように都落ちするような不遇な時にあっても神様の知恵を求めよう。神様はダビデのようにあなたに最高の味方、イエス様を共に進ませてくださる。養ってくださり、導いてくださる。このイエス様の十字架からあふれ流れる恵み、ご計画に信頼し歩もう。また、まだ神様のことを知らずに暗闇を歩んでいる方々のため、祈ろうではありませんか。神様の御心がなる事を信じ。