-再建- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください。まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。私の罪は、いつも私の目の前にあります。私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、あなたの御目に悪であることを行ないました。それゆえ、あなたが宣告されるとき、あなたは正しく、さばかれるとき、あなたはきよくあられます。ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。ああ、あなたは心のうちの真実を喜ばれます。それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。御顔を私の罪から隠し、私の咎をことごとく、ぬぐい去ってください。神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように。私は、そむく者たちに、あなたの道を教えましょう。そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。神よ。私の救いの神よ。血の罪から私を救い出してください。そうすれば、私の舌は、あなたの義を、高らかに歌うでしょう。主よ。私のくちびるを開いてください。そうすれば、私の口は、あなたの誉れを告げるでしょう。たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。どうか、ご恩寵により、シオンにいつくしみを施し、エルサレムの城壁を築いてください。そのとき、あなたは、全焼のいけにえと全焼のささげ物との、義のいけにえを喜ばれるでしょう。そのとき、雄の子牛があなたの祭壇にささげられましょう。」

詩篇51篇1-19節

 

私たちには喜怒哀楽といった感情がある。しかし本当の喜びは神様が与えて下さる。本当の楽しみは神様が与えて下さる。私たちが神様から離れている状態・罪を悲しみ神様に立ち返る時、私たちは神様にもう一度、再建・新しくしていただける。イエス様があなたの内に住まわれ、その土台となる時、私たちは決して倒れる事はない。私たちはこのイエス様にあって生かされ、歩もう。

 

さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王、ダビデの大スキャンダルの際に、ばれないと思っていたけど、ナタンから自分の罪を指摘され、改めて詩に自分の思いを残したもの。

 

何があったか、ざっと振り返ると、ダビデは王でありながら、戦争中に王宮で休み、ふと隣を見ると美しい女性、しかも自分の部下の妻バテシェバの水浴びを見、気に入り、王宮に招き入れ、不倫。そこで妊娠し、それを隠ぺいするため、バテシェバの夫を呼び戻し、床を奥さんと共にするよう勧めるも、今すべき事ではなない、仲間が必死に戦っているのに、と拒否し、諦めたダビデは、夫ウリヤを最前線に残して死ぬように仕向け、敵に殺させた。そして、悲しみの中にあるバテシェバを妻としてダビデは迎えるのでした。

 

本人は一時の快楽を求めたか、神様の与えて下さっている奥さんに満足しない(そもそもすでに7人の奥さんと他にも妾がいる時点でおかしいのですが)これくらいいいだろう、王として自分は頑張っているし、様々な思いがあったかもしれません。ただ、罪は罪。

 

私たちはこれくらいは良いだろう、そう考え、神様の思いから離れて自分の価値観で物事を考え、また進める。ある意味自由意志が与えられているから、それを選ぶのは自由。でも、結果を刈り取る事も求められる。何をしてもそうでしょう?良しにつけ悪しきにつけ、人は種を蒔けば刈り取りを必ずする事になる。その中で私たちは何を求めるのか?

 

ダビデはナタンから指摘された時、何を?私は王だぞ、自分がしたい事をして何が悪い、ではなく悔い改め、自分の罪を認めました。そのうえで↑の詩、「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください」と歌い始める。

 

謝罪しました、だからまたもとに帰ろう、とは彼は思わなかった。神様に情けをかけられ、豊かな憐みによって罪が拭い去られた。あとはもう好きに生きます、ではなく、なお、自分は弱いものですから、神様から離れようとする弱い心、神様を神様としない様々な自我、罪をあら聖めてほしい、と訴えるのです。神様なしでは私は生きられない、骨も干からびるようだ、と。

 

人は骨や筋肉などと言ったものによって支えられます。が、そのあなたの心の、霊の骨はなんですか?何を骨とするのか、何に骨になっていただくのか、で全然変わってきます。ダビデの、不倫の果ての隠蔽殺人はもう、とんでもないもの。それでも神様は憐れみを示され、御手を伸ばされたのです。それほどに神様は憐れみ深い。倒れたものを倒れたままにしない。

 

自分の内には自分の骨を、自分を枯らせる様々なものがあることを知っている。だからこそ、神様が必要なんです、と歌います。自分が弱いものであることを知っている。↑を見ると母が悪いような文もありますがそうじゃない、誰しもが弱い。だからこそ、神様を私は求める。造り主なる神様が、私の骨をくみ上げ建て上げて下さる。

 

ダビデは、さらにこう歌う。「それゆえ、私の心の奥に知恵を教えてください。ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください。そうすれば、私はきよくなりましょう。私を洗ってください。そうすれば、私は雪よりも白くなりましょう。私に、楽しみと喜びを、聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう」と。

 

砕かれる?悪いイメージ、裁き的なイメージがあるかもしれませんが、考えてください。医者がもし病気を見つけたなら、治す。病気をすれば私たちは医者に助けを求めます。その弱いもの、自分を砕いていくものを神様に取り除いていただく罪、自分の咎、問題、様々なものを砕かれることによって、私たちは神様にあって喜び、楽しませていただける。神様こそが、私たちを強め、喜ばせ、堅く立たせてくださるのです。

 

ダビデの願いは「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。あなたの救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように」これを神様は実現される、私たちにも。そのため神様は御子イエス様を遣わしてくださり、その愛を注ぎ、私たちを神様のもとに導こうとされた。多くの人を癒し、また悔い改めに導き、そのまさに骨となり、道となられた。

 

でもそれで終わらず、私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれた。私たちが本来負わなければならない罪の報酬、死の代価を支払わなければならなかった。しかし、御子イエス様が身代わりに背負われ、罰せられたのです。私たちから神様の愛が取り去られることがないよう、身代わりになられた。しかし3日目によみがえられたことによって、信じるすべての人の内に住まわれ、あなたを建て和えて下さる。そのうちに住まいながら。

 

古いあなたを砕き、新しい喜びと命、私たちのために命さえ惜しまないイエス様の愛が私たちの肉となり骨となり建て上げ、また導かれていくのです。私たちはこの神様に立ち返ろう。この愛に生きよう。あなたを建て上げ導かれるイエス様の内に。その霊はあなたから離れ去る云々ではなく、私たち自身、いつもつながり続け歩もうではありませんか、このイエス様の命にある新しい命の道を。