「そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告するとき、使者に命じて言った。『戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、もし王が怒りを発して、おまえに【なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけてくるのを知らなかったのか。エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。ひとりの女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか】と言われたら、【あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました】と言いなさい。』こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。使者はダビデに言った。『敵は私たちより優勢で、私たちに向かって野に出て来ましたが、私たちは門の入口まで彼らを攻めて行きました。すると城壁の上から射手たちが、あなたの家来たちに矢を射かけ、王の家来たちが死に、あなたの家来、ヘテ人ウリヤも死にました。』ダビデは使者に言った。『あなたはヨアブにこう言わなければならない。【このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。】あなたは、彼を力づけなさい。』ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。しかし、ダビデの行なったことは主のみこころをそこなった。」
Ⅱサムエル記11章18-27節
何か問題が起こった時に一番最初にすべきことは、謝罪。この初動を間違えると、ごまかそうとするとどんどん追い込まれていく。それは世の中を見渡せば言うまでもないでしょう。そこで自分をごまかすのではなく、悔い改める、原点に返り、神様の前に悔い改める、そこから始まる。神様は、私たちがそうして神様から離れた道に進むことを何よりも悼み悲しむ。私たちはいつも神様に留まり続けよう。神様はあなたという大切な存在が損なわれることを決して喜ばれないから。
さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王ダビデの治世で起こった最悪のスキャンダル、の続き。ざっと振り返ると、ダビデは王でありながら、戦争中でありながら戦闘の先頭に立たず、王宮で休み、ふと隣を見ると美しい女性、しかも自分の部下の妻バテシェバの水浴びを見、気に入り、王宮に招き入れ、不倫。そこで妊娠し、それをごまかすために、バテシェバの夫を呼び戻し、床を奥さんと共にしてごまかそうとするも、今すべきことは損な事ではない、仲間が必死に戦っているのに、と拒否し、諦めたダビデは、夫ウリヤを最前線に残して死ぬようにその手紙を持たせ、戦死させた。しかも本人にその命令が書かれた手紙をもっていかせ。
それにしても不思議なのは、そもそも今回の事、神様は正しい人を救わないのか?という質問を受けたのですが、残念ながら義人は一人もいない、と聖書にありますし、ダビデの罪を裁くほど自分たちは他のことにおいて、完璧なのか?また、クリスチャンは迫害があることをイエス様ははっきりと述べられる。
そしてもう一点。実はこの問題は私たちにもかかわりのある大事な話なのです。ダビデの持ちかけたことは罪です、はっきり言います。罪です。ただ問題は、今回の出来事に対し、バテシェバにも一つ問題があります。それは王が言うから仕方がない、ではなく、これを拒否する必要があった。いやもちろん、ダビデがそもそもの問題であることは間違いありませんが。
また、ヨアブもです。このダビデからの書状を見て、これはおかしい、と思って止めるべきでした。彼は↑を見る限り、王の期限を伺い、自分の立場を保持することを試みていたのが目に見えてわかる。もし怒ったなら、こういう報告をすることで、王の心を諫め、こちらに落ち度がなかったことを伝えさせた。
でも、じゃあダビデの不倫・隠蔽殺人だから、それと私は関係ない、ではなく、もし、私たちが罪に誘われたら。不倫とかじゃなくてもいいですよ?何か悪に誘われた時、私たちはそれは仕方がないことだよね、で受け入れるのか?これについては明日の12章で、預言者ナタンが、あなたは間違ってます!と王に提言するのですが、こればかりは王に言われたことだし仕方ないこと、で私たちは見逃してはいけないのです。
イエス様はサタンに誘惑されたときにやり取りがありました。「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。』イエスは言われた。『引き下がれ、サタン。【あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ】と書いてある。』すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。」
サタンは、罪は私たちに命を与えない。何か私たちにわかりやすい罪ならともかく、誘惑があった時に、基準はどこにあるのか?ダビデ王だから仕方なく従うのか?そうじゃない、イエス様は、神様を拝み、神様にだけ仕えよ、と答えられた。
バテシェバの悼み悲しみは本当によくわかる。辛い。断れなかった、断らなかった、どっちかはわかりませんが、結果夫ウリヤを失った。これくらい大丈夫、と思ったのか?ダビデもそうかもしれない。でも、神様の基準をなあなあにした結果、ウリヤの死に留まらず、バテシェバは心が砕かれ、ダビデ自身も、この後骨が干からびるようだった、と後に詩に残すほど大変苦しい目にあいます。
イエス様は、御言葉によって、その基準によってサタンの誘惑と戦った。神様に仕える、神様の御言葉の前に遜る、その中に私たちは生かされるのです。試みる必要もない、神様が私たちを守ってくださるのだから。
もちろん、上司や上に立つ人と対立することは時にあるでしょう。意見が違う、明らかに神様の言うことと違うことを要求してくることもあるかもしれない。でも、だから私たちは仕方ない、であきらめるのではなく、イエス様がいま必要な御言葉をもってサタンを追い返したように、あなたに語るべき言葉、また戦う力を神様は与えて下さる。この荒野で誘惑にあった時、いつも御使いがイエス様を守っていたように、あなたを神様は悪から守ってくださる。
私たちは神様から離れることを悲しまなければいけない。そこで、神様の恵みを損なってはいけない。神様は同時にあなたが離れ、死にゆくこと、疲れ果て、干からびていく事を悼み悲しまれる。だから、神様は御子イエス様を私たちのために与えて下さった。同じ人となって生まれてきてくださり、その愛をそれでも存分に現された。どこか遠くで見ているだけ、放っておくのではなく、敵の手に、この世の思い煩いや、何より罪の手に放置するのではなく、むしろ私たちの身近な存在となられ救うために。
でもそれだけではない、私たちは神様から離れ神様を神様としない、まさにその罪、その身代わりに御子イエス様を十字架にかけ、身代わりに罰せられ、死なせたのです。ありえない話。でも神様はあなたが損なわれることを悼み悲しまれる。ダビデが部下ウリヤを自分の罪をごまかすために殺す、そんな話とはわけが違う。私たちの罪を帳消しにするために、なんと御子イエス様を身代わりに死なせたのです。御子イエス様の命を損なわせた。しかし死で終わらず3日目によみがえらせたことによって、あなたの損なった命を、新しいものに造り変えてくださったのです。
これを受け取るか否か、それは最後はあなたの問題。救いを受け取ったって、この世の支配者や諸問題に対してどうにもならないでしょ、とこれを受け取らないか、それとも神様の御前に悔い改め立ち返るか。
もう私たちは神様の恵みを損なうような、神様から離れる歩みをしてはいけない。神様に立ち返り、この恵みの中歩もう。不完全なダビデではなく、完全な、あなたのために命を惜しまず与える王の王なるイエス様があなたを世の終わりまで養い導かれるから。神様は、あなたを損なわせる神様ではなく、命に満ち溢れさせる神様です。御子イエス様の命にあって。
