-勝利の本当の意味- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「その後、ダビデはペリシテ人を打って、これを屈服させた。ダビデはメテグ・ハアマをペリシテ人の手から奪った。彼はモアブを打ったとき、彼らを地面に伏させて、なわで彼らを測った。なわ二本を伸ばして測った者を殺し、なわ一本を伸ばして測った者を生かしておいた。こうしてモアブはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。ダビデは、ツォバの王レホブの子ハダデエゼルが、ユーフラテス川流域にその勢力を回復しようと出て来たとき、彼を打った。ダビデは、彼から騎兵千七百、歩兵二万を取った。ダビデは、その戦車全部の馬の足の筋を切った。ただし、戦車の馬百頭を残した。ダマスコのアラムがツォバの王ハダデエゼルを助けに来たが、ダビデはアラムの二万二千人を打った。ダビデはダマスコのアラムに守備隊を置いた。アラムはダビデのしもべとなり、みつぎものを納める者となった。こうして主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。ダビデはハダデエゼルの家来たちの持っていた金の丸い小盾を奪い取り、エルサレムに持ち帰った。ダビデ王は、ハダデエゼルの町ベタフとベロタイから、非常に多くの青銅を奪い取った。ハマテの王トイは、ダビデがハダデエゼルの全軍勢を打ち破ったことを聞いた。そこでトイは、その子ヨラムをダビデ王のもとにやって、安否を尋ねさせ、ダビデがハダデエゼルと戦ってこれを打ち破ったことについて、祝福のことばを述べさせた。ハダデエゼルがトイに戦いをいどんでいたからである。ヨラムは銀の器、金の器、青銅の器を手にして来た。ダビデ王は、それをもまた、彼の征服したすべての国々から取って聖別する銀や金とともに主に聖別してささげた。それらは、アラム、モアブ、アモン人、ペリシテ人、アマレクから取った物、およびツォバの王レホブの子ハダデエゼルからの分捕り物であった。ダビデが塩の谷でエドム人一万八千を打ち殺して帰って来たとき、彼は名をあげた…このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた。ダビデはイスラエルの全部を治め、その民のすべての者に正しいさばきを行なった。ツェルヤの子ヨアブは軍団長、アヒルデの子ヨシャパテは参議、アヒトブの子ツァドクとエブヤタルの子アヒメレクは祭司、セラヤは書記、エホヤダの子ベナヤはケレテ人とペレテ人の上に立つ者、ダビデの子らは祭司であった。」

Ⅱサムエル記8章1-18節

 

勝利、その意味とは何だろう。相手を屈服させる事なのだろうか。ないし、オリンピックを某ウィルスへの勝利の証とする、と宣言している人もいますが、まあいつかは勝利するでしょうけど、仮に感染者が減っても失った人は帰ってこない。しかし神様の勝利とは、それは救い。私たちが救われる時、本当の勝利を得させていただける。私たちは神様にいただく赦しを受け取らせていただこう。あなたへの神様の愛は変わらず、圧倒的な勝利者へと導かれる。

 

さて、↑は古代イスラエル王国2代目の王ダビデの治世での出来事。彼は、↑の記録に「このように主は、ダビデの行く先々で、彼に勝利を与えられた」とあるように、いつも勝利を治めていた。彼が王になる前も、先代の王にいくら命を狙われても彼に復讐せず、負けもしなかった。そういう意味で、彼は勝利したといえるでしょう、復讐心に。何より、救われた。神様に。

 

さて、ここでちょっと脱線するのですが、この勝利という言葉、実は原文を読んでみると、「主はダビデを救った」と書かれています。そうなんです、本当の勝利というのは敵を屈服させるとか、そういうレベルの話ではない、神様が救われる内にこそ、本当の勝利があるのです。

 

↑を見ると、多くの勝利をダビデは治めています。しかし実はこの後でとんでもない罪をダビデは犯すのですが、それは神様を悲しませる酷いものだった。その時、彼は骨は枯れるように疲れ果て、さらにはそれも影響してか、クーデターも起こされる。神様に信頼しない、神様から離れるところに本当の勝利・救いはないのです。

 

神様の救いの御手に届かないところはありません。そもそも、この当時、北のメソポタミヤ大国も南のエジプトも弱体化しており、今イスラエルにどうにかしようとできる状態ではなかった。神様が治めて下さっていた。彼らが↑の国々と手を組んでいたら相当苦しんだでしょう。しかし神様の御手は全地に及ぶ。この苦しい問題・敵はどうにもならない、と思う中にあって神様はすべてを治め、「救われる」のです。

 

ちなみに上に出てくるモアブは、イスラエルの兄弟国、属国になる事で神様の恵みの中に入れられる。エドムもですね。まあ、それを良しとしない彼らは後にまた反撃に出てきますが。でもこうして考えると、勝利は敵を屈服させることではなく、救いだ、ということを知る時に、↑の貢物の意味も少し変わってきます。もちろん、それらによってダビデたちは養われていく。3代目のソロモン王のように重税を課す必要もない。物理的に必要は満たされる。

 

同時に私たちの敵、問題、苦手な問題がクリアされ、神様の御心が働かれるとき、そこから流れ出てくる貢物は、神様の救いによって注がれる者は、あなたを養い導く。もしあなたの苦手な人が悔い改め、神様の救いを受けるなら、そこから生まれてくる関係は命あるものとなるのではないか。神様が、ただ単純に屈服させる勝利ではなく、神様の恵みがそこからあなたの内にあふれ流れてくるのです。神様がこれを造り変え、問題が恵みへと変えられていったなら、ただ不安が解消されるだけではなく、喜びに変えられるのではないか。

 

だからこそ、私たちは神様に委ねる必要があるのです。神様に聖別、委ねる時、それは思い煩いはすべて変えられていく、神様の御手に全て預けられるとき、人の人知をはるかに超えた神様の恵みが、御心が成し遂げられるのです。あなたがこの勝利・救いから得るのは神様の防具、神様そのものの恵みなのです。

 

ところで、↑を見ていると不思議に思うのは、ツォバの王との戦いで、ダビデはその戦車全部の馬の足の筋を切った、とあります。当時の戦いのスタイルとしてはイスラエルは神様の知恵に委ね、戦っていた。ゴリヤテ相手にも小石とスリングショットだけで打ち破った。そしてペリシテを敗走させたこともあった。サウルに命を狙われている時も、彼を倒す機会は何度でもあった、でも神様の知恵により、彼を討たないことを選んだ。そして彼が神様に立ち返ることを願った。

 

ようするに、「戦車全部の馬の脚の筋を切る」ということは、敵の、世の考え方で、相手を屈服させる、呪う、打ち破るのではなく、神様の御心に委ねる、神様の方法に委ねる、神様が成し遂げて下さる、そう信じる告白でもあるわけです。神様が、周囲の敵、あらゆる問題からあなたを救われる、この世的に打ち破る以上の神様の恵みを勝ち得させていただけるのです。

 

本当の勝利というのは、そういう意味では、私たちが神様の救いをいただかなければ得られない。私たちが神様なんかいらない、と離れ好き勝手に自分の思うままに生きていた、その罪という名の筋を、武器を置き、イエス様の前にひれ伏す。イエス様はあなたを罪の敗者ではなく、神様にある勝利者とするために、自らの命を十字架に身代わりにかけ、身代わりに罰せられ、死なれた。その命、筋は断ち切られた。しかし、3日目によみがえり、神様の舞台に繋げられた、神様の家族に繋げてくださるのです、イエス様の前に立ち返るなら。

 

私たちが神様の前に立ち返る、自分自身を聖別するというか悔い改める時、私たちはこの神様の恵みに、救いに覆われる。勝利に。神様の下さる勝利は敵を屈服させるものではなく神様の大いなる恵みがあなたを覆う。

 

今日、私たちはこの神様にある圧倒的な勝利者とさせていただきましょう。この神様の御が下さる最高の恵みをいただき、恐れず、イエス様の命にあって開かれた新しいこの命の内をイエス様と共に歩もう。あなたは一人ではない。イエス様が世の終わりまで、ダビデの周りに良き味方がいつもいたように、イエス様がともにおられるから。