「さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」
マタイによる福音書7章1-5節
隣の芝は青く見える、などということわざがありますが、その理由の一つとして自分の与えられているものに満足していない、そして人の欠点ほど目に付く、そんなところでしょうか。私たちは神様の目で見させていただく、神様の愛で行かされる時、神様の下さっている素晴らしい恵みを知る。神様を見続けよう。
さて、↑は神の御子イエス様が人となって生まれてこられ歩まれていた中で、ある時人々の前で語られた、山上の垂訓というものの中の一部。正直な話、私自身も耳が痛い話で、なかなか分かち合うことができなかった箇所。
人は本当に自分の価値観で人を見る。私も。でも、その基準が正しいとは限らない。そもそも、人間にはどうして裁く権利があるのだろう?私には、どうして裁く権利があるのだろう。そんなに自分は完璧なのか?と思わずこの箇所を読みながら思わされてしまった。まあ、どこかの大統領選で叩きまくっているクリスチャンの姿を見て、そう思いつつ、そう思っている自分もそうなっているな、と思わされる。
ふと、イエス様のおっしゃる、ちりと梁を考えてみると、大きさの差ってそうとうありますよね。自分がいかに罪人であったかを考えると、どうして他の人の塵を責めることができるだろう?
じゃあ罪を放置するのか?というとそういうわけでもない。人の塵を気にして取る前に、私たち自身がその梁を取っていただく必要がある。イエス様は、私たちの内にある様々な傷、悲しみ、何より罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれた。その死のとげを、その身をもって、いのちをもって取り除いてくださったのです。もちろん、この救いを受け入れるなら、の話ですが。
この罪を赦されたなら、その後どうしましょう?という話にするとなります。イエス様が求めることは、私たちが神様を愛する(悔い改め立ち返り、十字架による救いを受ける)こと、そして自分を愛するように隣人を愛することにあります。私たちがあなたは間違っている、と反発していくよりも、むしろその人に神様の愛をもって仕えるなら、それが大変でも神様助けてください、御心を現してください、と祈るなら、その人の塵なんて気にならなくなる、むしろその祈りによって神様の御心によって思わぬ形で変わっていく。
私たち自身がイエス様のいのちによって造り変えられる、イエス様の復活によって造り変えられ、死のとげ、梁は取り除かれる。これは大きなこと。その目で見るとき、神様の私たちに与えて下さっている恵み、すばらしさに気づくでしょう。神様、あなたに塵がありますよ、とおもっている、欠けがありますよ、と思っていたその針が取り除けられた時、私たちは神様のすばらしさを知る。その時、私たちは神様に全てを委ねられるのではないでしょうか。
究極的に梁を取り除かれるのはイエス様、受けるのは私たち。このことを忘れてはいけない。このイエス様の救いはすべてを変える。これが塵の混じった無価値なものとあなたは見るか、それとも完全なものと見、委ねるか。あなたはどっち?私たち自身の内に刺さった棘、梁、これを取り除いていただき、回復させていただき、本来神様があなたにイメージしていた最高のあなたを取り戻していただこう。イエス様はあなたが本来の姿に回復し、この神様の素晴らしい恵みを見、体験し、歩むことを何よりも望まれる。何せ復活のイエス様があなたの内に住まわれるのだから。
そのとき、兄弟の目のちり云々言う前に祈ることを知り、またどうすべきかも導かれるでしょう。その力も与えられるでしょう。知恵も与えられるでしょう。私たちはまず、神様との間に隔たれているこの梁を取り除いていただき、命の内に引き入れていただき歩もうではありませんか。