「この後、ダビデは主に伺って言った。『ユダの一つの町へ上って行くべきでしょうか。』すると主は彼に、『上って行け』と仰せられた。ダビデが、『どこへ上るのでしょうか』と聞くと、主は、『ヘブロンへ』と仰せられた。そこでダビデは、ふたりの妻、イズレエル人アヒノアムと、ナバルの妻であったカルメル人アビガイルといっしょに、そこへ上って行った。ダビデは、自分とともにいた人々を、その家族といっしょに連れて上った。こうして彼らはヘブロンの町々に住んだ。そこへユダの人々がやって来て、ダビデに油をそそいでユダの家の王とした。ヤベシュ・ギルアデの人々がサウルを葬った、ということがダビデに知らされたとき、ダビデはヤベシュ・ギルアデの人々に使いを送り、彼らに言った。『あなたがたの主君サウルに、このような真実を尽くして、彼を葬ったあなたがたに、主の祝福があるように。今、主があなたがたに恵みとまことを施してくださるように。この私も、あなたがたがこのようなことをしたので、善をもって報いよう。さあ、強くあれ。勇気のある者となれ。あなたがたの主君サウルは死んだが、ユダの家は私に油をそそいで、彼らの王としたのだ。』一方、サウルの将軍であったネルの子アブネルは、サウルの子イシュ・ボシェテをマハナイムに連れて行き、彼をギルアデ、アシュル人、イズレエル、エフライム、ベニヤミン、全イスラエルの王とした。サウルの子イシュ・ボシェテは、四十歳でイスラエルの王となり、二年間、王であった。ただ、ユダの家だけはダビデに従った。ダビデがヘブロンでユダの家の王であった期間は、七年六か月であった。」
Ⅱサムエル記2章1-11節
勇気と無謀は違うようで隣り合わせのようになっている。勇気をもって、信仰をもって走り出そう、という一方で、その基準が神様にもしなければ、それはもはや無謀な道へと進むことになる。なんで?保証をしてくれる方がいないからです。自分は知者のふりをして、あれこれと手を討つ、でも私たちは神様の御心を求め、神様の前に遜り、待ち望むものであろう。いつも神様に立ち返り、尋ね求め、幸せな神様の下さる命の内を歩もう。
さて、↑は古代イスラエル王国初代王サウルの死後、ダビデが全イスラエルの王となるその時までの移行期間に何があったのか、という出来事の一つ。ダビデはこれまでサムエル記でずっと見てきましたが、すでに次の王としてダビデを神様は選んでくださっている。いつでもなろうと思えば彼はなれる。でも、彼は神様の時を待ち望んだ。神様は、最初はイスラエルの中心、エルサレムに上るようにダビデに言うのではなく、ユダのヘブロンに行くように、とされたのです。しかも↑の記録を見てもわかる通り、実際に全イスラエルの王となるまで7年6か月待つことになるのです。
ダビデはこの期間をどう思ったのだろう?前王サウルの将軍アブネルは、傀儡政権として自分が力を発揮したい、立場を得たいと願っていたのか、自分の言うことを聞きそうな、サウルの子孫イシュ・ボシェテを両立し、彼を王とします。でも、実はなぜイシュ・ボシェテの治世がたった2年で終わったのか、というその一つの原因は、イシュ・ボシェテの不用意な言葉を気に食わず、結果引きずりおろした、ようするに、自分の傀儡とできるものを両立したのです。
これ、実はとても怖い話。私たちにとって。まず第一に、神様をあなたの傀儡としようとしてませんか?神様が自分の思っている通りに動いてくれるに違いないと、神様に従うのではなく、自分のお心に神様を従わせる。第2に、私たち自身の自分の考えにあうものを自分の主として、それに合えばよいしょして、違うものは排除する。これ、今の世の中で本当によく見られる。
↑の話は別に古代イスラエル王国の政権移行期だから私には関係ない、と思いたくなるところですが、果たしてどうなのだろう?ちなみに、このアブネルもまた、ダビデに後につきかけたのですが、この後の事件によって結局イシュボシェテを下ろした後、結局ダビデ側の将軍ヨアブに殺されることになるのです。あ、それはダビデの思いに反して、ですが。
時に自分の考えと逆に進むことは勇気がいる。それが正しいのかどうかなんかわからない。どっちも正しくない場合がある。ただ、暗闇が、罪が支配した世界に完璧な状態など存在しえない。その中で、本当に勇気がある人というのは、神様により頼み、神様に、どんな状況下にあっても聞き、また従う、その身を寄せる。
神様は私たちに何か目的をもって今の時代に命を与え、また置かれた。あなたのいる場所、あなたの仕事、あなたの環境に。なら、私たちは何が正しいか、自分の知恵に頼るのではなく、神様の行くように示された場所、考えの中にあって、神様の栄光、光を現すべきではないでしょうか。
聖書にこうあります。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。自分を知恵のある者と思うな。主を恐れて、悪から離れよ。それはあなたのからだを健康にし、あなたの骨に元気をつける。あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる」と。
ちなみにこれを書き残したのは、知者と言われたソロモン王。それでも、結局は自分の悟りではなく、神様の御心を求めること、そこに全てがある。その時、私たちの霊的な骨は力づけられ、私たちは神様の下さる収穫を得、あがめさせていただけるよう導かれる。私たちの蔵は神様の愛で、神様への喜びでいっぱいにしていただけるのです。自分の知恵に頼って、うまくいったと思ってもそれは自分の栄光にしかつながらず、むしろ、ほら私は正しかったじゃないか、という思いが支配する。でもそれは決して長続きはしない。いつかはその喜びは、尽きる。
神様により頼んだダビデは神様に支えられ、その治世は長く続く。長さの問題ではない、様々な戦いはあっても、それでも神様の喜びで満たされていく。自分の傀儡となる王をたてたアブネルは後に殺され、持ち上げられたイシュボシェテの政権も、どんなに自分は正しい、と思って王のつもりでいても2年持つのが限界だった。なぜ?神様により頼まないで歩んだところには喜びは、倉の収穫は尽きていくから。でも神様により頼むなら、その蔵を「神様が」日々満たしてくださるから、決して尽きることはないのです。
本当に勇気のある人は神様に従う道を選ぶ。自分の知恵ではなく、神様の知恵を求める。どのように歩むべきか、私はこうしていく、ではなく、その道を示してください、歩ませてください、助けてください、と神様の前に遜る。神様に従う人というのは弱い人ではありません。むしろ、神様の前に遜り、世の人から弱者に見られようとも、神様が完全に働かれ、強くしてくださる。どんな状況にあっても神様に従うものほど強いものはない。なぜ?神様が働かれるからです。勇気ある者、強いものと「神様がしてくださる」のです。
神様は、私たちが知者だ、我こそ王だ、神だ、と言わんばかりの私たちのこの罪を罰するのではなく、かえって私たちに本来の恵みで、愛で、御心で満たすため、私たちの蔵を満たすため、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架にかけられ、死なれた。その御子イエス様の、何の罪もないイエス様の命をあなたの身代わりにしたのです。しかし、3日目によみがえられ、私たちはこの十字架の前に悔い改める全ての人の内に復活のイエス様が住まわれる。あなたの蔵は、この復活のイエス様の恵みで満たされるのです。
何を恐れる必要があるでしょう?何を自分の知恵を誇る必要があるでしょう。本当の知者は、この真の命の蔵からいただき、養われ、歩む。この世界にあって神様が建てられた蔵。そこにすべてがある。この復活のイエス様があなたを養い、導かれる。本当の知者、御子イエス様に聞き従い遜る勇気を今日持ち、生かされ歩もうではありませんか。