-けなすよりも愛:究極の愛歌・哀歌- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ダビデは、サウルのため、その子ヨナタンのために、この哀歌を作り、この弓の歌をユダの子らに教えるように命じた。これはヤシャルの書にしるされている。『イスラエルの誉れは、おまえの高き所で殺された。ああ、勇士たちは倒れた。これをガテに告げるな。アシュケロンのちまたに告げ知らせるな。ペリシテ人の娘らを喜ばせないために。割礼のない者の娘らを勝ち誇らせないために。ギルボアの山々よ。お前たちの上に、露は降りるな。雨も降るな。いけにえがささげられた野の上にも。そこでは勇士たちの盾は汚され、サウルの盾に油も塗られなかった。ただ、殺された者の血、勇士たちのあぶらのほかは。ヨナタンの弓は、退いたことがなく、サウルの剣は、むなしく帰ったことがなかった。サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった。生きているときにも、死ぬときにも離れることなく、鷲よりも速く、雄獅子よりも強かった。イスラエルの娘らよ。サウルのために泣け。サウルは紅の薄絹をおまえたちにまとわせ、おまえたちの装いに金の飾りをつけてくれた。ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた。ヨナタンはおまえの高き所で殺された。あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた。』」

Ⅱサムエル記1章17-27節

 

私たちは自分によくしないものに対して、状況に対して恨んだり、悲しんだり、いい思いは抱かないのが大半でしょう。人の痛みや悲しみ、傷は人間の力で完全なる癒しを受ける事は出来ない。しかし、神様はそれらを乗り越えさせてくださり、新しい一歩を踏み出させてくださる。神様の愛の内を。神様の切り開かれる道を。私たちはこの道を行こう。この道は一人ではない、あなたのために命を投げ出されたイエス様がともにおられるのだから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国初代王サウルが死に、2代目の王ダビデが就任するまでの間の出来事。というよりも初代王サウルが召された直後の話。昨日は、亡くなったサウル王の首をとってきた(自死したサウル王の)人が嘘の報告をし、自分の名誉としようとした、その彼が討たれた、というところを見ました。

 

そもそもダビデからすれば、彼の人生を奔走させた、ここまでの半生を悩ませた長保ン人だった、サウルは。国のために敵国の巨人ゴリヤテを討ち、宮廷音楽家から、正式な兵士に召し抱えられたのに、彼の評判に嫉妬したサウルは彼を国から追い、命を狙い始め、何度も殺そうとした。まあそのたびにダビデは神様に守られ、実はそのたびに討つ機会を与えられていたのに、ダビデは憐れみ、神様に彼が悔い改めることを願って何もしなかった。

 

そんなサウルが死に、彼の首をもって来たのだから褒美を与える、どころか、それは正しくない、としたのです。神様が、王としたのだから、これを呪う、討つのは間違っていると。それは神様の計画と逆行するんだ、と。神様に委ねるべきだ、としたのです。まあ、お隣のA国の選挙についてあれこれぶつけ合っている人がいますが、正しい指導者なんていない。だからこそ、神様に私たちは委ね、また、指導者のために祈るべきなのです。それは聖書にも示された通り。

 

少し横道にそれましたが、続けてダビデは哀歌を歌い、これを残すように、と言ったのです。その内容は、親友であるサウルの子ヨナタンのため、だけではなく、なんと↑をよく読むと、サウル王についても歌っているのです。

 

しかもその内容は驚くべきことです。あの王は本当にダメで、どうしようもない、神様に逆らい続けた間違った王だった、ではなく、「サウルの剣は、むなしく帰ったことがなかった。サウルもヨナタンも、愛される、りっぱな人だった。生きているときにも、死ぬときにも離れることなく、鷲よりも速く、雄獅子よりも強かった。イスラエルの娘らよ。サウルのために泣け。サウルは紅の薄絹をおまえたちにまとわせ、おまえたちの装いに金の飾りをつけてくれた。ああ、勇士たちは戦いのさなかに倒れた」といのです。

 

もちろん一時の感情で歌ったものならともかく、これを残させた。これは彼自身の思いだった。神様が、サウルの内に働かれているとき、それは強く、早かった。そして勇士だった、と。なんという誉め言葉。彼のために泣け、だなんてよく命を狙われ続けたのに言えるな、と思うところですが。

 

実はイエス様も、泣かれた。友、ラザロが死んだとき。イエス様はもちろん彼がやがて点に変えることもわかっているし、これから生き返らせるのだから何ともない話。でも、イエス様は、この罪のゆえに死がある、存在する、罪は死に向かうしかないこの現実に涙した、それだけではなく、それに支配されるラザロを悲しんだ、その死を。イエス様も感情がある。人の死を、罪人であろうと悲しまずにはいられなかった。

 

数日前に、私たちは呪ってはならない、むしろ善をもって悪に打ち勝つことを分かち合いましたが、私たちはこの心を持っているだろうか。いや、もてない。でもこの復讐心に心を支配されてはいけない、その事をダビデは歌をもって、残す中で示したのではないか。むしろ聖書にもあるように、喜ぶ者と共に喜び、悲しむ者と共に悲しむべし、と。もし悲しんでいる人を前に私たちが喜べば、果たして神様の栄光は現されるのだろうか。

 

私たちはむしろその現実、この世のために祈り、悲しみ、また祈り、愛し、仕えるべきではないだろうか、そのことを本当に思わされる、この歌を見ると。その中で、神様の大いなる御力が駆け巡り、強く働かれ、その栄光が現される、私たちが自分の思いを神様に委ねるとき、それは弱者のように感じられるかもしれない。でも違う、その、世から見たら弱く見えるその弱さの内にこそ神様の完全なる力が、御心が働かれるのです。

 

私はブログのハッシュタグにほとんど、「カウンセリング」という項目を入れている。聖書の分かち合いが?と思うかもしれないけど、神様はイエス様を「カウンセラー」という。本当の癒しは、私たちの方法論や感情ではなく、このイエス様に私たちが心も思いも、私たち自身を委ねる時、その御心によって新しくされていく。イエス様も一緒に進まれ新しくつくりかえていかれるのです。

 

ハッシュタグの話は別として、ヨナタンについてダビデはこう歌った。「ヨナタンはおまえの高き所で殺された。あなたのために私は悲しむ。私の兄弟ヨナタンよ。あなたは私を大いに喜ばせ、あなたの私への愛は、女の愛にもまさって、すばらしかった。ああ、勇士たちは倒れた。戦いの器はうせた」と。

 

ヨナタンの愛は、女(異性の愛)にも勝るものだった、と。イエス様は、聖書の中で大事なことは、神様を愛すること、その中で与えられる御力をもって、自分を愛するようにと隣人を愛すること、ここにある、聖書のすべてはここにある、とおっしゃられた。私たちが神様に委ね仕える中に働かれる力は表現のしようのないものへと、神様が変えられる。

 

なぜ私たちの、罪人のためにそこまで神様は、と思うでしょう。でも神様は、ダビデがサウルをそれでも憐れんでいた以上に、私たちを憐れみ見捨てられず、その愛を現すために、御子イエス様を人として生まれさせてくださった。この現実に生まれてこられ、同じ重荷を背負われ、なおその中に愛を現された。

 

でもただ奇跡を行うだけではなく、時に厳しく叱咤され、悔い改めに導き、最後は私たちの罪の身代わりに十字架上で罰せられイエス様は死なれた。そこまでするほどに神様は私たちを愛されている。この愛を私たちが受け入れる時、私たちは神様の子とされ、3日目によみがえられた復活のイエス様があなたの内に住まわれ導かれる。このほどの愛をあなたに注がれているのです。

 

私たちはこのイエス様の命掛けの愛を持って開かれたこの道を、その信仰の剣をもって、祈りの愛の心をもって、仕え、歩み続けよう。この道は、イエス様もあなたと共に進まれ導かれるから、世の終わりまで「いつも」共に。