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とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「さて、ペリシテ人は全軍をアフェクに集結し、イスラエル人はイズレエルにある泉のほとりに陣を敷いた。…すると、ペリシテ人の首長たちは言った。『このヘブル人は何者ですか。』アキシュはペリシテ人の首長たちに言った。『確かにこれは、イスラエルの王サウルの家来ダビデであるが、この一、二年、私のところにいて、彼が私のところに落ちのびて来て以来、今日まで、私は彼に何のあやまちも見つけなかった。』…ペリシテ人の首長たちは彼に言った。『この男を帰らせてください。あなたが指定した場所に帰し、私たちといっしょに戦いに行かせないでください。戦いの最中に、私たちを裏切るといけませんから。この男は、どんなことをして、主君の好意を得ようとするでしょうか。ここにいる人々の首を使わないでしょうか。この男は、みなが踊りながら、【サウルは千を打ち、ダビデは万を打った】と言って歌っていたダビデではありませんか。』そこでアキシュはダビデを呼んで言った。『主は生きておられる。あなたは正しい人だ。私は、あなたに陣営で、私と行動を共にしてもらいたかった。あなたが私のところに来てから今日まで、私はあなたに何の悪いところも見つけなかったのだから。しかし、あの領主たちは、あなたを良いと思っていない。だから今のところ、穏やかに帰ってくれ。ペリシテ人の領主たちの、気に入らないことはしないでくれ。』ダビデはアキシュに言った。『私が何をしたというのでしょうか。私があなたに仕えた日から今日まで、このしもべに何か、あやまちでもあったのでしょうか。王さまの敵と戦うために私が出陣できないとは。』アキシュはダビデに答えて言った。『私は、あなたが神の使いのように正しいということを知っている。だが、ペリシテ人の首長たちが、【彼はわれわれといっしょに戦いに行ってはならない】と言ったのだ。さあ、あなたは、いっしょに来たあなたの主君のしもべたちと、あしたの朝、早く起きなさい。朝早く起きて、明るくなったら出かけなさい。』そこで、ダビデとその部下は、翌朝早く、ペリシテ人の地へ帰って行った。…」

Ⅰサムエル記29章1-11節

 

今世界は試練の時に立っている。でもそれは私たちがこの先どう生きるのか、それが問われる時でもある。神様はまだその門戸を開き、私たちが返ってくることを待っている。私たちは今こそ、神様に立ち返り、神様に従い歩もう。神様は御子イエス様の命をあなたに差し出してまでその門戸を開かれたのだから。

 

さて、↑は古代イスラエル王国初代王サウルの12年の治世の最後の時。サウルは神様の憐みによって本来イスラエルから切り離されるはずだった民族出身でしたが、何と名誉ある初代王に選ばれた。なぜ神様は最初からダビデを選ばなかったのか?他にいなかった?それもあったかもしれない。でもこの事を通して神様はサウルが、ベニヤミン族が、また彼を通してイスラエルの民は神様に立ち返ることを願っていたのではないか。

 

神様はその門戸を憐みの故に開かれる。神様を捨てたサウルに、助け手としてダビデを置かれたり、神様に信頼する息子が勝利を治める、その事によってサウルに立ち返る機会は何度もあった。しかし彼はその機会をことごとく拒否し、本来民を王として、ペリシテから守らなければならないのにもかかわらず、ダビデに嫉妬して、ダビデの命を付け狙っていた。もし彼が神様に立ち返っていたのなら、王としては退けられても、神様の恵みの内に生きられたのではないか、と思う。

 

サウルはダビデに嫉妬していた。↑でペリシテ軍が心配するように、ダビデがペリシテの巨人ゴリヤテを討った事で、民の名声は、評判は、サウルよりも上にダビデが来た。だからなんですか?人の評判が何ですか。神様は人それぞれに良い計画を持っておられる。それが自分に気に食わないから、と神様の開かれた門戸を自ら閉じて何になりますか。結局それで何かを得てもそれは最後には終わっていく。しかし神様は永遠の喜びをあなたの内に注ぎたい。どんな試練の中にあっても。

 

一方、↑ではペリシテ軍のもとに逃げ、ペリシテの敵でありイスラエルの敵であるものたちを討って王の信頼を得ていたダビデ。しかし、いよいよペリシテ軍とイスラエル軍の本格的な戦いが迫っていた。この戦いで、ダビデの親友ヨナタンは殺され、サウルも瀕死の重傷を負い自死する。そんなイスラエルのピンチの中にあって、ダビデはサウルを恐れ、サウルを助けるわけではなく、ヨナタンを助けるのでもなく、ペリシテの中に留まっていようと必死なのが↑に見える。

 

ダビデはペリシテの将軍にその正体を見破られ、下手をしたら殺されそうになる。しかし、ダビデは何とかサウルから身を守りたいからなのか、ペリシテに留まり一緒に戦う、という。まあ、もしかしたらペリシテ軍の内側から攻撃を仕掛けるつもりだったのかもしれませんが。

 

それでも、「私が何をしたというのでしょうか。私があなたに仕えた日から今日まで、このしもべに何か、あやまちでもあったのでしょうか。王さまの敵と戦うために私が出陣できないとは」という返答にはどうしても疑問を持ってしまう。今さら何を言っているんだ、ここから脱出する機会を、親友を、王を助ける機会を得る機会になっていたかもしれないのに、これをもし本気で言っているとしたらとんでもない話。

 

でも、そこが私たちにとって最も大事な砦となる部分なのです。神様が門戸を開かれた、それに対して、意地になって拒否し続けるか、わかりました、と言って神様の開かれた道を進むか。

 

私たちの人生は決断の連続。その時、どう応答するか、いつも私たちは問われます。これは私の人生、主権は私にある、私が決めるんだ、というのは罪。でも、神様にその主権をお返しし、神様がこれに歩め、というならそれに従う事、それこそが大事なのです。だって、神様は神様なのですから。というよりも、あなたを愛し、あなたのために愛を持って開かれた道ですから。それはたとえどんな苦難の中にあっても神様の御心、栄光が現される。神様が下さるものを求めるか、サウルのように自分の栄光を求めるか。

 

聖書にこんな箇所があります。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」

 

これ、よく勘違いされるのですが、試練から逃げられる、という意味ではありません。神様が一緒に、その試練を歩み、その先にある栄光の実を食べさせてくださる。御心を見、体験させてくださる。神様が一緒なら、神様が開かれた道なら、どんな中にあっても私たちは安心。神様が一緒だから耐えられる。同じ重荷を背負ってくださり、同じくびきを負ってくださっているからこそ、私たちはその試練の先にある出口、真の恵みを得させていただけるのです。

 

神様は、御子イエス様を人として遣わされた、生まれさせてくださった。神様と私たちの道がつながったのです。その門戸が開かれたのです。しかし人は拒否し続けた。それでもイエス様は愛することをやめなかった。同じ重荷、くびきを負いながらも、その御心を現され、癒され、励まされ、悔い改めに導き、ついには私たちの罪を身代わりに背負われ、十字架にかかられ、死なれた。でも、3日目によみがえられたことによって、この救いによって開かれた門、罪の中に開かれた出口、死から脱出する、その出口、神様に向かうその門戸が開かれたのです。

 

イエス様は今も生きておられる。あなたがこの十字架による救いを受け入れる、悔い改め立ち返るなら、あなたは今日神様の子とされる。新しいあなたへの入り口、救いの道、古い自分の出口はまさにここにある。イエス様は世の終わりまであなたとともにおられる、と約束された。まだこの門戸は閉じていない。私たちは遅すぎる前に立ち返り、命を得よう。そしてイエス様の命の代価をもって開かれたこの恵みの道を歩み続けようではありませんか。