「さて、ジフ人たちがギブアのサウルのところに上って来て言った。『ダビデは私たちのところに隠れているではありませんか。エシモンの南、ハキラの丘のホレシュにある要害に。王さま。今、あなたが下って行こうとお思いでしたら、下って来てください。私たちは彼を王の手に渡します。』サウルは言った。『主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ。さあ、行って、もっと確かめてくれ。彼がよく足を運ぶ所と、だれがそこで彼を見たかを、よく調べてくれ。彼は非常に悪賢いとの評判だから。彼が潜んでいる隠れ場所をみな、よく調べて、確かな知らせを持って、ここに戻って来てくれ。そのとき、私はあなたがたといっしょに行こう。彼がこの地方にいるなら、ユダのすべての分団のうちから彼を捜し出そう。』こうして彼らはサウルに先立ってジフへ行った。ダビデとその部下はエシモンの南のアラバにあるマオンの荒野にいた。サウルとその部下がダビデを捜しに出て来たとき、このことがダビデに知らされたので、彼はマオンの荒野の中で、岩のところに下り、そこにとどまった。サウルはこれを聞き、ダビデを追ってマオンの荒野に来た。サウルは山の一方の側を進み、ダビデとその部下は山の他の側を進んだ。ダビデは急いでサウルから逃げようとしていた。サウルとその部下が、ダビデとその部下を捕らえようと迫って来ていたからである。そのとき、ひとりの使者がサウルのもとに来て告げた。『急いで来てください。ペリシテ人がこの国に突入して来ました。』それでサウルはダビデを追うのをやめて帰り、ペリシテ人を迎え撃つために出て行った。こういうわけで、この場所は、『仕切りの岩』と呼ばれた。ダビデはそこから上って行って、エン・ゲディの要害に住んだ。」
Ⅰサムエル記23章19-29節
何事も使用方法を間違ったらいい結果は得られない。人間関係だろうと、何か者であろうと同じ。自分が、これが正しいんだ、とどんなに思ってもそれが間違っていれば結果は必然。私たちは自分のお心を神様の御心と勘違いすることはないだろうか?私たちは御言葉に、祈りに、何が正しいのかを導かれながら、いのちの道を歩もう。神様はあなたのために御子イエス様の命さえ惜しまなかったほどに愛されているのだから。
さて、↑は古代イスラエル王国初代王サウルの12年の治世の中での出来事。↑を見て想像がつく通り、イスラエルは長年にわたるペリシテとの戦いが続いています。代表的な戦いと言えば、少年ダビデと巨人ゴリヤテの戦いでしょうかね。でも、これに勝利を治めたダビデを気に入り、自分の王宮の兵として招き入れたサウル張本人が、ダビデへの嫉妬ゆえにダビデを殺そうと、目の前の国民に危機をもたらしているペリシテを放っておいて、追い掛け回すのです。
↑はそんな中での出来事。ダビデたちの隠れている場所が知られ、ジフ人がサウルにその場所を報告すると、サウルは驚くべきことを言います。「主の祝福があなたがたにあるように。あなたがたが私のことを思ってくれたからだ…」。
神様の祝福がありますように、おお、神様を信じているんだ、と思いきや、自分のことを思って行動したから、あなたに祝福があるように、というのです。とんでもない動機です。自分のお心にかなったことをしたから、褒美的な感覚で、祝福という言葉を利用、神様を利用するのです。あくまで彼は神様よりも自分が中心だった。
彼はこれまでも分かち合ってきた通り、神様に栄光を帰するというか、神様の下さる恵みよりも、人の目を気にし、評判を気にし、人の評判を着飾ったある意味で裸の王様的な存在だった。神様の憐みによって、本来イスラエル民族から切り捨てられるはずだったベニヤミン族を繋げられ、挙句その中から王として選びだされた、なんという恵み、神様の御手の中で良き導きがある、はずだったのに、それよりも人の着飾らせる偽の栄光を求め、彼は神様を捨てた、その結果、悪霊に狙われ、苦しめられていたのでした。
サタンの、ある意味で怖いところは、彼は自分をサタンとは名乗りません。だって、名乗ったら、信用します?皆さんだったら。あと、一見して悪いことだと分かるようなことを言いません、むしろ良いことに聞こえるように語り掛け、陥れる。
ダビデは、サウルが神様に立ち返るために置かれた神様の恵みそのもの。もちろん王位ははく奪されても、それでも神様の恵みが彼を着飾らせるなら、たとえ王位を失っても十分ではないか。実は彼の孫、メフィボシェテ、という人がいるのですが、彼は戦で障を負ってしまった。その上ダビデがすでに王になっていたのですが、彼をどうしたか?王の食卓にいつも彼を招き、共に食事をしていた。王権が離れていても、神様の憐みが私たちを包むなら、この世の名誉、権威など何するものぞ、という事。サウルもそう考えたら、悔い改めていたら結果は違っていたかもしれない。
しかし、あくまで彼はダビデは自分の栄誉を脅かす存在でしかない、と見るべきものを見えなくしてしまっていた。肉的にも、霊的に盲目になっていた。肉的には、いま国民をペリシテから守らなければならないはずなのに、放っておいて、ダビデを追い回す。そんなことをしている暇があったらペリシテと戦って信用を得ればいいのに。もう、その時点で王として失格だったと言わざるを得ない。
さらには、神様が置いたダビデ、その意図を神様に尋ね求めなかった。自分のお心と違うから神様と対立して、ダビデというよりも神様を追い回す。↑のダビデを追い回すサウルのように。
しかし、神様に信頼し今この逃走劇というか旅をしている、神様にその道を委ね、行くなというところに行かず、導かれたところが岩地だろうが、どうなるかわからない状況であろうとも神様に信頼したダビデに神様は素晴らしい御心を現され、ペリシテが来ているということで、サウルを引き返させたのです。まあ、この後また追いかけてくるのですが、ここではさらに驚くべきことが起こる。それはこの後の分かち合いのお楽しみ。
サウルは「祝福」ということばを口にしましたが、それは私たちが神様に立ち返り、神様に従う中に「神様が与える、注がれる」ものであって、自力で得るものではありません。自分で得ようとして、これだけ頑張っているのにどうして神様は私の願っている通りにしてくれないんですか?祝福してくれないんですか?と私たちは思いがちですが、それこそ祝福の悪用。
違う、神様はいつでも私たちに恵みを注いでくださっている。それを私たちが信じ従う、受け取り、踏み出す、その中に神様が御心を現される。結果、それは神様によって祝福されたものと言えるのです。もし、祝福を得る方法があるとすれば、それはただ神様により頼み、従うこと。私たちの努力や宗教行為によらない。私たちが神様のもとに悔い改め立ち返るとき、私たちは新しくされる、命を得る、神様の御心によって導かれる「祝福された者」となるのです。
そのため、今から約2000年前、神の御子イエス様を人間として生まれさせてくださった。神であられるのにそのありようを捨てられないとは考えず、罪を犯さない点を除いて全く同じになられ、私たちの重荷を背負ってくださった。一緒に歩みながら私たちにその愛を注がれていった。本来受ける価値のない私たちに。最後は私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、神様と私たちの和解の道となられ、このイエス様の命ゆえに、悔い改め立ち返るすべての人を神様の子としてくださる。復活のイエス様と同じ恵みにあずからせてくださり、まさに祝福された者と「させていただける」のです。
私たちはこのイエス様の命にあって与えられたその道、祝福の中を歩もう。私たちが祝福を作り出すんじゃない、神様の与えてくださる恵み、それこそ祝福。あなたのお心と違うと感じようとも神様はいつでも全を、イエス様の命に添えて与えられる。私たちはこの命の内を歩もうではありませんか。