「サウルは、ダビデおよび彼とともにいる者たちが見つかった、ということを聞いた。…サウルは、そばに立っている家来たちに言った。『聞け。ベニヤミン人。エッサイの子が、おまえたち全部に畑やぶどう畑をくれ、おまえたち全部を千人隊の長、百人隊の長にするであろうか。それなのに、おまえたちはみな、私に謀反を企てている。きょうのように、息子がエッサイの子と契約を結んだことも私の耳に入れず、息子が私のあのしもべを私に、はむかわせるようにしたことも、私の耳に入れず、だれも私のことを思って心を痛めない。』すると、サウルの家来のそばに立っていたエドム人ドエグが答えて言った。『私は、エッサイの子が、ノブのアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。アヒメレクは彼のために主に伺って、彼に食料を与え、ペリシテ人ゴリヤテの剣も与えました。』そこで王は人をやって、祭司アヒトブの子アヒメレクと、彼の父の家の者全部、すなわち、ノブにいる祭司たちを呼び寄せたので、彼らはみな、王のところに来た。…サウルは彼に言った。『おまえとエッサイの子は、なぜ私に謀反を企てるのか。おまえは彼にパンと剣を与え、彼がきょうあるように、私に、はむかうために彼のために神に伺ったりしている。』アヒメレクは王に答えて言った。『あなたの家来のうち、ダビデほど忠実な者が、ほかにだれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛の長であり、あなたの家では尊敬されているではありませんか。私が彼のために神に伺うのは、きょうに始まったことでしょうか。決して、決して。王さま。私や、私の父の家の者全部に汚名を着せないでください。しもべは、この事件については、いっさい知らないのですから。』…それから、王はそばに立っていた近衛兵たちに言った。『近寄って、主の祭司たちを殺せ。彼らはダビデにくみし、彼が逃げているのを知りながら、それを私の耳に入れなかったからだ。』しかし王の家来たちは、主の祭司たちに手を出して撃ちかかろうとはしなかった。それで王はドエグに言った。『おまえが近寄って祭司たちに撃ちかかれ。』…その日、彼は八十五人を殺した。…彼は祭司の町ノブを、男も女も、子どもも乳飲み子までも、剣の刃で打った。…ところが、アヒトブの子アヒメレクの息子のエブヤタルという名の人が、ひとりのがれてダビデのところに逃げて来た。エブヤタルはダビデに、サウルが主の祭司たちを虐殺したことを告げた。ダビデはエブヤタルに言った。『私はあの日、エドム人ドエグがあそこにいたので、あれがきっとサウルに知らせると思っていた。私が、あなたの父の家の者全部の死を引き起こしたのだ。私といっしょにいなさい。恐れることはない。私のいのちをねらう者は、あなたのいのちをねらう。しかし私といっしょにいれば、あなたは安全だ。』」
Ⅰサムエル記22章6-23節
私たちが生きていれば、理不尽なことにあう。でも私たちは忘れてはいけない。神様があなたの暗闇に光をともしてくださる。その光は闇の中に隠れることはない。私たちは理不尽だ、苦難だ、困難だ、と思うなら、いやいつでも、この神様の光のもとに集おう。主はあなたを守られる。
さて、↑は古代イスラエル王国初代王サウルの12年の治世の中で起こった最悪な出来事。理不尽極まりない。神様の憐みによって、本来イスラエルから切り離されるはずの部族の一人だったサウルが初代王に選ばれた。なんという恵み。しかし、神様の恵みより、民の評判を、目を求めた彼は神様を捨て、そのすき、心をとらわれてしまった。でも、神様は何度も彼に悔い改めのチャンスを与えていた、でもそのたびに彼は拒否し続けるのでした。
そんな彼は次の王に決まっていたダビデ、民の評判のいいダビデに嫉妬し、彼を追いかけまわし、殺す旅に出る、目の前の民を苦しめるペリシテを放っておいて。そして、逃走していたダビデを助けた祭司、アヒメレクたちを虐殺するのでした。その一家、85人を。自分の手を汚さず。
とんでもない話です。まず第一にダビデからしたら王に命を狙われる理由はない。たしかにアヒメレクはダビデが本当のことを伝えなかったので事情は知らなかった。でも、彼はダビデについてこう証言しています。
「あなたの家来のうち、ダビデほど忠実な者が、ほかにだれかいるでしょうか。ダビデは王の婿であり、あなたの護衛の長であり、あなたの家では尊敬されているではありませんか。私が彼のために神に伺うのは、きょうに始まったことでしょうか。決して、決して」と。
ダビデはうそをついた、でもそれでも彼が本当のことを言っていてもアヒメレクは彼を助けていたことでしょう。そして嘘をつかれた、いわれもしない理由で、正しいことをしたのにアヒメレクたちは殺されていく。なんという理不尽な話だろう。
そんな中、その父に正直に伝えなかったために虐殺されたアヒメレク一家、その中で逃れることができたエブヤタルは、ダビデのもとに身を寄せました。ある意味で父親たちの死の原因になったダビデ、とも取れる。でも、悪いのはダビデではないんだ、ということをよく知っている。だからこそ、ダビデのもとに身を寄せた。
これはすごいな、と思う。神様がいるならどうしてこんなことが、と神様から離れる人は多い。クリスチャンでも。でも、神様は決して悪を行わない。エブヤタルはこのことを知っていた。ダビデが悪いのではなく、神様の御心から離れ、神様の御心を良しとしないサウルたちに問題がある、と。離れるべき悪から、マインドから離れ、ダビデのもとに行ったのです。
サウルは、「エッサイの子が、おまえたち全部に畑やぶどう畑をくれ、おまえたち全部を千人隊の長、百人隊の長にするであろうか。それなのに、おまえたちはみな、私に謀反を企てている」と言っていますが、悪に、罪に、神様から離れたところに恵みがあるだろうか?むしろ神様はあなたに最高の者を与えないだろうか?世の与えるものに神様が与える恵みは勝らないのだろうか?決して、決してそんなことはない。
ダビデはこれからも王に狙われる危険な旅が続く。それはエブヤタルの報告からも十分わかるだろう。じゃあなぜダビデはわたしの元にいれば安全だ、と言えるのか?いえたのか?それは、確かに彼と一緒に行くたびは困難がある、それは彼の言う通りだった。私たち人生だって様々な困難がある。でも、安全を、平安を与えるのは自分の努力や力によらない、神様ご自身が与えて下さる。ダビデは神様に信頼しこの旅をつづける、だからあなたもこの神様のもとに一緒にいるなら、安全だ、そうダビデはエブヤタルを招いたのです。
私たちは神様の愛を疑って、御心を疑って、こんなのいらない、と出し入れするのではない、神様はあなたにその恵みを惜しむことなく、隠すことなくあなたに与えられた。かのクリスマス、御子イエス様を人として生まれさせてくださっただけじゃなく、共に歩んでくださった。危険な、ローマ帝国支配の時代にわざわざ、一緒に歩むことを選ばれた。しかもお腹もすけば、傷つけば血も流れる人間と同じ体をとって。その中でも惜しむことなく愛を現され、癒され、私たちの重荷を背負い、最後は十字架上で私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれた。
本来私たちはサタンと一緒に、やがて死にゆくサウルと一緒に最後は死にゆくところを、3日目にイエス様がよみがえられたことによって同じ復活の恵みにあずからせていただき、復活のイエス様があなたの内に住まわれる。その救い、この十字架のもとに身を寄せるとき、神様が新しくその御心を、道をあなたの内に開かれ導いていく、神様が一緒だからどんな苦難があっても神様が守られる。
さて、あなたは理不尽な目にあったとき、いや、あわなくとも普段の歩みの中で誰の内に身を寄せるだろうか?神様は救い、隠れ場、盾、救い。イエス様は遠く離れたところではなく最も身近なところに来られ、私たちを招かれている。一緒に歩もうと。あなたは今日、この招きにどうこたえるだろうか。