-集いし最高の味方- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ダビデのマスキール。彼が洞窟にいたときに。祈り:私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします。私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です。私が歩く、その道に、彼らは、私に、わなを仕掛けているのです。私の右のほうに目を注いで、見てください。私を顧みる者もなく、私の逃げる所もなくなり、私のたましいに気を配る者もいません。主よ。私はあなたに叫んで、言いました。『あなたは私の避け所、生ける者の地で、私の分の土地です。私の叫びに耳を留めてください。私はひどく、おとしめられていますから。どうか、私を迫害する者から救い出してください。彼らは私よりも強いのです。私のたましいを、牢獄から連れ出し、私があなたの御名に感謝するようにしてください。正しい者たちが私の回りに集まることでしょう。あなたが私に良くしてくださるからです。』」

詩篇142篇1-7節

 

あなたの周りの環境、置かれた場所、人それぞれ違う。でも、同じことが1点ある。それは、神様があなたを心配され、あなたの内に働かれようとその御手が伸ばされているということ。環境や状況が中心なんじゃない、神様が中心に広げられる地で、命の内を歩もう。

 

さて、↑は昨日の箇所の補足というか分かち合いきれなかった側面。古代イスラエル王国2代目の王ダビデが、王になる前、その時王だった初代王サウルに命を付け狙われ、追い回されていたころの話。彼は恐れ、逃げ出した。いいんです。人間ですから。怖いことがあって何が悪いんですか?でも、それでも神様に信頼を置くものは幸いです。神様があなたの居場所となり、力となり、励ましとなり、いのちとなるから。

 

で、昨日の箇所を見ると、急に多くの人が集まってきたかのように見えますが、実はその前にダビデは多くの苦悩があった。それがまさに↑の詩に現されている。表題にも祈り、とあるように、彼は苦悩があり、悩み、でも祈った。

 

でも、かれはきれいごとをならべたんじゃない。よく色んな宗教の祈りっぽい言葉を見たり、お経とか、そういうのとも違う。彼は「私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。私は御前に自分の嘆きを注ぎ出し、私の苦しみを御前に言い表わします」とあるように、正直に叫び、請い、嘆きを注ぎだし、包み隠さず思いをぶちまけた。私たちはそれほどに神様に訴えていますか?仕方ないよね、諦めるか、とか、神様がどうせ何とかしてくれるんでしょう?とか。

 

でも、私たちはもっと現実に神様を求めたい。神様は身近なのです。牢屋の中に閉じ込められたように感じる、王と王の側近たちに命を狙われ追い回されているダビデ、そんなときに神様神様言って、いつ祈りが叶うかわからない、と「儀式的」「最後の神頼み」的にするのではない、祈りは神様との直通電話でもあり、神様はあなたと身近な関係を持ちたいのです。

 

神様は、私たちが想像するよりもはるか前から最高の祈りの答えを用意してくださっている。あなたの叫びも痛みも全部知っている。何せ神様はあなたを造られた方。だからあなたを誰よりも心配し、あなたの髪の毛の数までも知ってます。監視しているとかそういう意味ではなく。ダビデが「私の霊が私のうちで衰え果てたとき、あなたこそ、私の道を知っておられる方です」と告白している通り。

 

神様は身近。ただ私たちが勝手に遠ざけているだけで、神様はあなたの内に愛を、その道を教え、導きたいのです。一緒に。あっちに行って、こっちに行って、と指示をするわけではなく、苦難の中にあっても一緒に進んでくださる。

 

昨日、多くの人が自分の危険を顧みずダビデを助けに集まってきたことを分かち合いましたが、物理的には人であっても、様々な形で神様はあなたの周りをその御力で、御心をもって覆っているはずです。本当に身近に。私たちが勝手にこれは、私の見方ではない、と排除するのではなく、神様はよいものを与えて下さっている、与えてくださるのです。これを信じますか?あなたは。

 

本当に正しいものなどいない、かもしれない。でも神様はあなたの必要をあなたのもとに集めて下さるし、なにより、今から約2000年ほど前に御子イエス様を、同じ人間となって、生まれさせてくださり、同じ苦難の道を、同じ重荷を背負い歩んでくださった。でもそれだけではなく、癒しや多くのしるし、奇跡、また道を教えながら悔い改めに導き、いのちの道を示された。

 

最後は私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれた。犯罪だけが罪じゃない。神様を神様としていない歩みそのものが罪。神様から離れた私たちの罪の代価、死、永遠の滅びへの道から、救いへと導きだすため、イエス様が身代わりに十字架で死なれた。でも3日目によみがえられたことによって、イエス様を救い主として信じるすべての人の罪を赦し、神様の子としてくださる。あなたの内に住まわれ、世の終わりまで、命をかけてまで愛されるイエス様があなたと共に歩まれる。なんという幸いだろう。このイエス様こそ、神様が遣わされた最高の仲間、味方、いやパートナーではないだろうか。

 

私たち自身今日、神様に近づかせていただこう。この神様の下さる一つ一つの恵みに心から感謝し歩もうではありませんか。神様はあなたに最高の恵みをいつもおかれている。これを排除するのではなく、日々受け入れ、神様の御心がますます広がっていく事を切に祈り求め続けようではありませんか。今このくらい日本にあってもなお神様は私たちを憐れみ、その御手を伸ばし続けて下さっている。あなたはこの手を取るだろうか?