-私たちの居場所- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…『…だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。』」

マタイによる福音書7章24-27節

 

私たちの居場所はどこにあるだろう?神様は私たちを建て上げて下さる。あなたの家、あなたの居場所、救い主となられるために来られた。今日、私たちはこの神様のもとにとどまり続けよう。

 

さて、↑は神の御子たるイエス様が人となって生まれてきた中で語られた言葉の一つ。いわゆる山上の垂訓と呼ばれる教えの最後の方になります。イエス様は、いつもわかりやすく時にはたとえ話をもって↑のように話してくださった。難しい話ではないんです。ただ、私たちがイエス?誰?とか、自分の概念、神学などを持ち出して、勝手に難しい話にしているだけで、イエス様の願いはシンプル。あなたが救われること。

 

私たち、神様のことを難しくしてません?その関係を。難しくしすぎて、基盤をしっかりしているつもりでも、実はもろく、何か試練が訪れると、あんなに祈ったのに何で?とか、こんなに信仰熱心に歩んできたのになぜこんな目に合うの?試練に合わなければならないの?などと考える。

 

↑の箇所を読みながら、岩ってそもそも何だろう、と考えると、それはイエス様。イエス様自身が私たちの土台となる。このイエス様の言葉が支え、生かし、その家、私たち自身を建て上げてくださるのです。イエス様は遠く離れたところから見ているのではなく、むしろ今から約2000年前のクリスマス、人となって生まれてこられ、私たちと同じ場所に住まわれ、そして、私たちを支え、養われ導かれる。

 

このイエス様がいるから、私たちはどんな試練が訪れようと、雨風が吹こうと倒れない。イエス様という「存在」を信じているから倒れないんじゃない。イエス様の「ことば」を聞いて、「これを行う」、イエス様のおっしゃることに聞き従う、信頼する、その中で、支えられ力づけられ、倒れないようにしてくださる。一緒にいて下さるのです。

 

イエス様はただ家を建てるのではなく「ことば」を使われる。話される、生きた神様です。語られ、導かれる。励まされる。イエス様は死んだ神ではなく生きた神様なのです。あなたと不安定な、神様のいのちのない関係ではなく、崩れることのない命の関係を結ぶため、私たちの罪を取り除くため、十字架にかかられ、死なれた。でも3日目によみがえられたことによって、その一度崩れたはずの家が、そのイエス様の命の上に建て上げられる。あなたを保証するのはこの命掛けのイエス様の愛です。

 

この福音、約束にあってあなたは生かされる。あなたがイエス様を受け入れるなら。あなたを新しく建て直し、イエス様があなたの内に住まわれ一緒に歩まれる。語られる神様が、共に支えながら。土台、それはあなたを支える。誰が?イエス様が。あなたのために命をかける。あなたがこのイエス様の言葉を受け入れ従う時、また求めるとき、あなたの周りはイエス様の御力にあって、御心にあって変えられていく。だからこそ、私たちはこのイエス様と日々繋がり、養われ歩もう。御心を現してください、と求め歩もうではありませんか。