-普段着、何を着ていますか?- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。『こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。』ダビデはそれを脱ぎ、自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。ペリシテ人はダビデに言った。『おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。』ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。ペリシテ人はダビデに言った。『さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。』ダビデはペリシテ人に言った。『おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。』そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。…」

Ⅰサムエル記17章38-50節

 

普段自分の使っている道具じゃないとしっくりこない、うまくいかない、という職人さんもいる。それはあながち間違いじゃないでしょう。使い慣れたものではないものではいつもの成果を出せない。私たちは普段、神様と普段着を切るかの如く生活しているだろうか?御言葉に養われ。私たちは世のあれこれに恐れおののく前に神様の愛を見つめ、またその関係をもう一度考えようではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国初代王サウルの12年の治世の中、イスラエルがペリシテ軍と戦っているときの話。ペリシテ軍とは長い間戦いが続いていたのですが、この戦いでは2m86cm近くある巨人、ゴリヤテに苦しめられていました。彼の巨大さの前に、イスラエルは恐れおののいていた。そんな中、次期王となる事を神様によってきめられていたダビデが、父親に頼まれ、戦場を行き来していました。

 

民も恐れるゴリヤテ。王も一応それなりの戦闘実績を上げている。まあ、それは神様の助けがあった事によるのですが、しかし彼は神様を捨て、その神様の恵みが離れ去っていたため、どうにもならなくなっていたわけですが。そんな彼をダビデは何度も見ていた、彼が神様をののしり、神様を信じて何になる?と罵っているのを聞いた。しかし、彼は恐れることなくここに出入りし、民も王も何も彼の前にできないでいるのに憤り、自らが先頭に出る、と言いました。

 

ただ王も兄も相手にしてくれなかったのですが、ビデの前についにサウル王は認め、彼を1対1の一騎打ちの代表として遣わすことに決めます。ちなみにダビデはどうもこの時相当若かったものと思われます。若いんだから、とかさんざん兄に言われるくらいですから。

 

王はせめてもの助けに、と思い、自分のよろいかぶとを着させ、頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせさらにそのよろいの上に、サウルの剣を帯びさせます。サウルなりの思いやりというか、そういったものがあるのでしょう。↑の直前でサウルは神様があなたとともにおられるように、とダビデに言った。でも、それじゃあ心もとないと思った。どこまでも神様を信頼できないでいたのでした。

 

しかし、ダビデはそんなもの、サウルの武具はいらない、と言います。あまりに慣れていないから。彼は羊飼いですし、サイズが合わなかったのかもしれない。でも普段使い慣れていないもので戦ったって何にもならない。でも、神様が、ダビデが羊飼いとして羊を守っているときに襲ってきた熊や獅子から守ってくださり、これを打たせてくださった。この神様が共にいる、これこそが彼の生きざま、この神様と共にいる以上の鎧、兜、剣はない、と考えたのです。

 

ダビデは、いつも羊飼いとして持ち歩いていた自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、ゴリヤテに近づいていきました。そんなものでいったい何ができるのだろう?と多くの人は思うでしょう。普通に考えて、勝てるわけがない。

 

でも、ダビデには確信があった。これまで神様は同じように守ってくださり、共に戦ってくださった。神様などいて何になる!と罵るゴリヤテ、彼が相手にしているのは神様、この神様がダビデを守り、共に戦ってくださる、この確信があった。勝利は、自分の内にあるのではない、神様が勝利される。神様など信じて何になる、のではなく、この神様がいるからこそ、私たちは生きた者となる。恐れは吹き飛び、神様が共にいて下さる恵みに生きるのです。

 

昨日、私たちはゴリヤテ化してはいけない、と書きましたが、私たちは神様などいなくても何とかなる、と自分の鎧、兜、剣を身に着け世の中で戦う。また、神などいても何にもならない、神様など信じて何になる、と神様をある意味で罵る。それこそまさにゴリヤテの姿そのもの、自分の誇りで自分を巨人のように見せ自らを誇る。しかし、自分たちの身に着けている武具は、最後は切り離され、神様の前にひれ伏すしかなくなるのです。

 

ダビデはゴリヤテにこう言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。…すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される」と。

 

彼の相手をしているのは、神様、あ、ダビデが神様というわけではなく、神など信じて何になる、という神様をののしるわけですから、相手は神様であり、神様の御心、神様ご自身です。その神様の前に私たちがどんなに立ち向かっても何にもならない。また、世、様々な思い煩いがあなたに迫ってこようとも、それらは神様の前には何もする事は出来ない。

 

神様は私たちを愛し、最高のあなたへと引き上げたい、神様の子としたい、でもこの神様の前に立ち向かって何になるでしょう。むしろ私たちは自分の身に着けているプライドや実績、罪、そうしたものを脱ぎ捨てて神様自身の前に降伏、その手に身を委ねよう。

 

その時神様は、御子イエス様の命と共に新しいあなたへと交換してくださる。十字架上で示された神様の救い、十字架の死と復活による救いがあなたに訪れ、私たちはこの復活のイエス様による恵み、愛、御心、御力といった鎧、兜を身に着け、剣を帯びさせて下さるのです。神様が戦ってくださるから。

 

私たちは普段何を着ていますか?イエス様を身に着けていますか?私たちは普段からこの神様に繋がろう、神様に頼る、神様が自分自身の鎧、兜、剣となってくださると確信し歩もう。御言葉に養われ、祈りに支えられこの神様の下さる御心に生き、勝利を得よう。神様が用意してくださる戦いの先に待つ最高のあなたに。イエス様がその十字架ですでに勝利してくださったのだから。