-あなたは何を見ていますか?- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主はサムエルに仰せられた。『いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たして行け。あなたをベツレヘム人エッサイのところへ遣わす。わたしは彼の息子たちの中に、わたしのために、王を見つけたから。』サムエルは言った。『私はどうして行けましょう。サウルが聞いたら、私を殺すでしょう。』主は仰せられた。『あなたは群れのうちから一頭の雌の子牛を取り、【主にいけにえをささげに行く】と言え。いけにえをささげるときに、エッサイを招け。あなたのなすべきことを、このわたしが教えよう。あなたはわたしのために、わたしが言う人に油をそそげ。』サムエルは主が告げられたとおりにして、ベツレヘムへ行った。すると町の長老たちは恐れながら彼を迎えて言った。『平和なことでおいでになったのですか。』サムエルは答えた。『平和なことです。主にいけにえをささげるために来ました。私がいけにえをささげるとき、あなたがたは身を聖別して私といっしょに来なさい。』こうして、サムエルはエッサイとその子たちを聖別し、彼らを、いけにえをささげるために招いた。彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、『確かに、主の前で油をそそがれる者だ』と思った。しかし主はサムエルに仰せられた。『彼の容貌や、背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。』エッサイはアビナダブを呼んで、サムエルの前に進ませた。サムエルは、『この者もまた、主は選んでおられない』と言った。エッサイはシャマを進ませたが、サムエルは、『この者もまた、主は選んではおられない』と言った。こうしてエッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。『主はこの者たちを選んではおられない。』サムエルはエッサイに言った。『子どもたちはこれで全部ですか。』エッサイは答えた。『まだ末の子が残っています。あれは今、羊の番をしています。』サムエルはエッサイに言った。『人をやって、その子を連れて来なさい。その子がここに来るまで、私たちは座に着かないから。』エッサイは人をやって、彼を連れて来させた。その子は血色の良い顔で、目が美しく、姿もりっぱだった。主は仰せられた。『さあ、この者に油をそそげ。この者がそれだ。』サムエルは油の角を取り、兄弟たちの真ん中で彼に油をそそいだ。主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。…」

Ⅰサムエル記16章1-13節

 

私たちが問題に直面している時、悲しみに包まれている時、どこを見ているだろうか?何を見ているだろうか?自分の内面?相手の問題?でも、神様はあなたを心配して下さっている、という事だけは忘れてはいけない。神様は、あなたにはあなたへの御心を現される。世があなたに何か迫ろうとも、主の御心に、ご計画に勝れない。今こそ主に立ち返り、神様を見上げよう。

 

さて、↑は古代イスラエル王国の初代王サウルの治世12年の中に起きた出来事。サウルは神様から離れていってしまい、彼を選んだ神様も悲しみ後悔していた。でも、後悔以上に悲しかった。サムエルも悲しんだ、というけど、それ以上に神様から離れていった、この後悪霊につかれ苦しんでいくサウルを悲しんだ。彼が神様のもとに立ち返らず、世の波に飲み込まれていく、罪の、サタンの波に飲み込まれていく事を。

 

しかし、神様はサウルがだめになった、はいじゃあすぐにとっかえよう、変わりはいくらでもいる、とおっしゃるような冷たい方ではない。↑でサムエルに神様は「いつまで悲しんでいるんだ」とおっしゃった。悲しみに明け暮れていた。でも、神様は悲しみを悲しみで終わらせない。そこから神様は新しいその御心をもって何かを立てて下さるのです。それが、新しい王となるダビデ王だった。

 

ダビデ王が2代目の王として↑の箇所で選ばれるのですが、実際に即位するのはずっと先。なるまで王の嫉妬にさらされ、命を狙われることもある。数十年も先の話。でも、神様はこのダビデを通して悪霊に苦しむサウルを支えようとそばにおいてくださっていた。もちろん、王権は取り除かれていく。でも神様の恵みは変わらない。

 

世の中の状況、あなたの状況は刻々と変化していくだろう。でも、私たちは忘れてはいけないのです。神様の恵みは決して変わらないし、神様に立ち返るものの上に豊かに注がれる、油を角に入れてサムエルが向かっていったように、神様の恵みがあなたの上に、↑はダビデの話だけど、あなたにはあなたへの恵みが注がれるのです。

 

実は↑はダビデだけにフォーカスされますが、一人一人に神様の恵みがあった。ただ単純に次の王を決めるための儀式としてだけサムエルを神様がエッサイ(ダビデの父)のもとに遣わしたのではない、このサムエルを通してこのエッサイの家の一人一人に神様はその恵みを注がれたのではないか、と思う。というのも、わざわざ兄弟の名前を残して、この人は選んでいない、とばっさりいかないでしょう、それなら。

 

でも神様はそうじゃない。じゃあ神様は目の前にしているエリアブ、アビナダブ、シャマ、そしてほかの4人の息子たちを見ていないのか?容貌や背の高さで選ばない、と言っている神様自身は彼らの中身を見ていない?いえ、彼らのことを知っているからそれを言える。彼らを知っているから、「王として」は退けている。

 

神様は、彼らには彼らへの計画がある。自分たちの能力や容貌、その他もろもろによって自信を失って、いつまでも悲しんでいてはいけない。ダビデが選ばれたことは他の兄弟たちにとってショックだったし、ダビデ自身も驚いたでしょう。いくら油注がれても、王になるのはずっと先だし、苦労も多いし、王に嫉妬され命を付け狙われていくし。

 

でも、神様は一人一人を思ってくださる。サムエルを悲しみから立ち上がらせたように、サウルを思って悔い悲しまれたように、エリアブ、アビナダブ、シェマそれぞれには、それぞれの役割、祝福を神様は注ぎたいのです。今、サムエルが来た時こそ神様に出会うチャンス。

 

彼らには彼らへの神様の計画がある。何かの役割に選ばれなかった、その役割から退けられていても、神様はあなたを通して何かをしたい。神様はあなたを思って計画を立てておられる、あなたの生まれる前から。何せあなたは神様のその手で造られた大切な存在、だからこそ、私たちは神様の油、聖霊様に満たされ歩むその中にこそ、自分の能力だのなんだの関係なく、神様にあって私たちは生きた者となるのです。

 

神様は、私たちの容貌やら何やらでは決めない。気に入る、気に入らない、とはしない。あなたにはあなたへの神様の御心を現すため、今エッサイの家に神様はサムエルを遣わした。ダビデだけを選ぶのが目的なら、神様はダビデと何らかの形で1対1で出合わせればいい、でも、礼拝、いけにえをこの家で献げに行く、と言って、さらに実行したのは、今こそ神様に立ち返り神様の御心の内に生きよう、と訴えたかったのではないだろうか。

 

ちなみに、エッサイ・ダビデの家の家系には元遊女や、絶対にイスラエルの民に加えてはいけない、と言われた国の出身者もいます。でも、そんな彼らをも神様は見捨てず、彼らの思いの内に、神様はその油・御心、もっと言うと聖霊様を注がれるのです。

 

神様はあなたをもう一度取り返すために御子イエス様を遣わされた。そして私たちの目をあげさせ、またその中にあっても御心を、愛を現され、最後は十字架に私たちの罪を身代わりに背負われ死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、イエス様の前に悔い改め立ち返るすべての人のうちに新しい助け主なる聖霊様を豊かに注がれ、あなたを導かれ、立ち上がらせる。

 

私たちは今日、どこを、何を見ているだろうか?あの十字架に示された神様の愛、イエス様の命掛けの愛を、わすれてはいないだろうか?この命にあって与えられる新しいあなた、そのあなたを導かれる神様に信頼し歩もうではありませんか。