-こんなにも覚えられているのに- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「サウルは、イスラエルの王位を取ってから、周囲のすべての敵と戦った。すなわち、モアブ、アモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼らを懲らしめた。彼は勇気を奮って、アマレク人を打ち、イスラエル人を略奪者の手から救い出した。さて、サウルの息子は、ヨナタン、イシュビ、マルキ・シュア、ふたりの娘の名は、姉がメラブ、妹がミカルであった。サウルの妻の名はアヒノアムで、アヒマアツの娘であった。将軍の名はアブネルでサウルのおじネルの子であった。サウルの父キシュとアブネルの父ネルとは、アビエルの子であった。サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあった。サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、その者をみな、召しかかえた。」

Ⅰサムエル記14章47-52節

 

人にとって忘れられることほど悲しいことはない。無視はもとより、たぶん墓参りもその辺にあるのかな、と思う。ないし記念会とか。報道特集とか。ただ一つ大事なことを忘れてはいけない。人はいつかは忘れる、でも神様は私たちをいつまでも覚えておられる、ということを。私たちはこの神様から離れてはいけない。この神様がともにいて下さることを忘れず、神様と共に生きよう。あなたを忘れない神様を忘れず。

 

さて、↑は古代イスラエル王国初代王サウルの治世12年間の記録。ペリシテとの戦いは昨日でいったんは終わりますが、まだまだ続き、最終的にはこのⅠサムエル記の最後でサウルは討たれることとなります。

 

↑の一番最後の方に記されている、「サウルの一生の間、ペリシテ人との激しい戦いがあった」ということば、これを考えると本当に厳しい人生だった。彼はイスラエルから、その横暴な罪の部族ゆえに切り離される部族、そこから王として選ばれ、神様の恵みを得たはずだった。しかし、彼は神様から離れ、民の注目を集める、自らを神のように思わせたい(最近のどこかの国のリーダーみたいに感じるなぁ)と離れていってしまった。

 

彼の周りには↑のようにたくさんの仲間、良い友がいた。こののちの章に登場する、↑に出来るヨナタンの親友であり、娘の婿に入ってくれる最強の味方、ダビデを神様はそばにおいてくださっていたのに、いや、その前もサムエルを置いてくださっていたのに、彼は退けてしまった。その上で戦いに明け暮れた。どれだけ大変だったのだろう、疲れただろう。気の休まるときはなかったのではないか、と↑を見ると思う。

 

まあ、この先の箇所でその様子が見えてくる。でも、その前にこのサムエル記の著者は、その中で、これだけの助け人、仲間を神様が置いてくださっていたんだ、にもかかわらず彼は、とこの先の章に続いていく。

 

↑を見ると「サウルは、イスラエルの王位を取ってから、周囲のすべての敵と戦った。すなわち、モアブ、アモン人、エドム、ツォバの王たち、ペリシテ人と戦い、どこに行っても彼らを懲らしめた」とありますが、彼の周りには様々な敵がいた。でもそれだけじゃなく、この先に出てきますが嫉妬や不信感、恐怖、悪霊、そうしたものとの戦いが続いている。

 

私たちの人生、戦いばかりでどうして気が休まるだろう。イエス様はこのようにおっしゃられた。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」と。

 

まあこのイエス様の言葉は迫害に対して、それに戦う、そのことに疲れた人、という意味もあるのですが、イエス様はすでにこの言葉を私たちに約束されている。つまり、私たちが疲れる前に、重荷を負う前に、イエス様のもとに来る、その中に私たちは安息を得るのです。イエス様自身、心優しくへりくだり、わたしは神の御子だぞ、とサウルのように高ぶるのではなくへりくだり、同じ人間となって生まれてこられた。同じくびきを負い、一緒に歩んでくださる。私たちの魂に安らぎを一緒に歩みながら与えてくださるのです。

 

「サウルは勇気のある者や、力のある者を見つけると、その者をみな、召しかかえた」とありますが、サウルは決定的な一つの問題を抱えていた。彼には↑のように多くの仲間、助け手を神様は置かれていた。でもその助け主を置いてくださっている「神様」自信を覚えていなかった。神様に頼っていなかった。一生懸命戦った。自分のためになりそうな人を近くに集めていった。でも、それ以上に神様に頼ることを忘れてしまったそれが次の章で決定的な事件を起こすことになるのですが、王権を失っていく事件が。

 

私たちは様々な問題の中で神様と戦う。綱引きをする、主導権を取ろうとする。でも、戦うべき相手を間違っていないだろうか?勇気をもって、と↑にありますが、神様に従う、頼る、委ねる勇気を私たちは持たなければならないのではないだろうか?戦うべき相手は神様なのではない、問題、あなたの目の前の敵、罪、思い煩い、それと一緒に戦ってくださる神様に、私たちは敵対してはいけない。

 

たぶん具体的に敵とみなす、という人はあまりいないかもしれない。意識的に。でも、無意識のうちに主導権を奪って神様、引っ込んでいてください、神様、あなたが勝利を持たらす、癒してくださるなんて信じられない、と信用しきれない。これこそ、まさに罪。この罪の問題、サタンのささやき、声に私たちは負けてはならないのです。

 

サウルの家系図が↑の記録に残されている。このサムエル記をまとめ上げるときに、あえて神様はこの家系図を書き残させた。なぜだろう?神様は、それでもサウル一家のことを覚えていた、忘れていなかったのです。あのイスラエル民族から切り離されるはずだったベニヤミン族、そして、神様に逆らっていくサウルの存在、それでも彼の一族を書き残した。神様はサウルを汚点として記録から抹消して、次のダビデ王の記録から始めればいいところを、これを書き残させた。

 

神様はサウルを、それでも立ち返るのを、待っていたのです。覚えておられたのです。だから彼の内に多くの助け手を与えて下さっていた。有能な。これは彼の権威によったのではない、まあそういう人もいたかもしれないけど、神様がその御手を伸ばされ、助け手を置かれ、なんとか立ち返る機会を何度も何度もこれから、苦難の戦いの中で示されていく。

 

だからこそ、私たちはあなたを覚える神様を私たちは忘れてはいけない、覚えていなければいけない。神様は、その愛を示すべく、あなたを見捨てないために、御子イエス様を人となって生まれさせて下さり、同じ重荷を負わせてくださった。同じ苦しみの時代をともにくびきを負い歩み、それでもその愛を示し、御心を現され、癒され、導かれていった。

 

でもそれだけではない。私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ、死なれた。自分を裏切り、ののしられ、苦しめられ、十字架から降りたら信じてやると言われても、決して十字架から降りる事は出来なかった。神様はイエス様を十字架から降ろすこともできる、でもそれをしなかった。どれだけ悲しかっただろう。涙をこらえ、あなたを覚えるため、あなたを捨てないために、私たちの罪を身代わりに背負わせ、イエス様を身代わりに十字架で罰し死なせたのです。

 

しかし3日目によみがえられた。神様は、罰して終わりではなく、もう死んだものとして忘れるのではなく、蘇らせてくださったことによって、この十字架の前に悔い改めイエス様を救い主として信じ受け入れる全ての人を神様の子として受け入れて下さる。受け入れて終わりではなくあなたを覚え、世の終わりまでともに歩んでくださる。最高の味方があなたと共に歩まれ、このイエス様の命によって切り開かれた新しい命の道を導かれるのです。イエス様の命によって与えられる安らぎ、御心によって開かれる新しい命の道を、イエス様を忘れず覚え、共に歩ませていただこう。