「ベニヤミンのギブアにいるサウルのために見張りをしていた者たちが見ると、群集は震えおののいて右往左往していた。サウルは彼とともにいる民に言った。『だれがわれわれのところから出て行ったかを、調べて、見なさい。』そこで彼らが調べると、ヨナタンと道具持ちがそこにいなかった。サウルはアヒヤに言った。『神の箱を持って来なさい。』神の箱は、その日、イスラエル人の間にあったからである。サウルが祭司とまだ話しているうちに、ペリシテ人の陣営の騒動は、ますます大きくなっていった。そこでサウルは祭司に、『もう手をしまいなさい』と言った。サウルと、彼とともにいた民がみな、集まって戦場に行くと、そこでは剣をもって同士打ちをしており、非常な大恐慌が起こっていた。それまでペリシテ人につき、彼らといっしょに陣営に上って来ていたヘブル人も転じて、サウルとヨナタンとともにいるイスラエル人の側につくようになった。また、エフライムの山地に隠れていたすべてのイスラエル人も、ペリシテ人が逃げたと聞いて、彼らもまた戦いに加わってペリシテ人に追い迫った。こうしてその日、主はイスラエルを救い、戦いはベテ・アベンに移った。」
Ⅰサムエル記14章16-23節
神様は、逆転を私たちの内に起こされる。でも、私たち自身も神様の前に方向転換しなければならない。私たちが神様に立ち返る時、あらゆる意味での逆転が起こる。勝利の日が。大恐慌ではない、喜びの日が。私たちはこの勝利を、救いをいただこう。恐れず隠れず、神様の下さる恵みの日々を歩み続けようではありませんか。
さて、↑は古代イスラエル王国初代王サウルの治世12年間の後半の時期の話。当時、というよりも、長年にわたるペリシテ人との戦いで、イスラエルは苦難に陥り、民は洞穴などに隠れどうにもならなくなっていた。それまで神様はサムエルという預言者というか士師・裁き司を通して守っていた。
神様的には王政は反対(神様を退けた、と神様から言われる)だった、それでも神様は彼らが神様に立ち返ることを願い、サムエルを通してイスラエルを助けていた。何より神様がその王を選ばれた。神様は彼らを見捨てず、神様を頼る、サムエルを通して神様を知り、神様の恵みに生きることを何より願っていたのでした。
しかし、時と共にサウルは神様よりも民の評判を気にし始め、今ペリシテの前に苦戦し始めると、民が自分から心が離れていく事を恐れ、神様がしてはならない、と言われていることを彼はしてしまう。そこで神様はサウルの王政が崩れていく事を伝えるも、それでも憐れみ深い神様は、サムエルをとどまらせ、サムエルを通してその愛を現されるのでした。そして、↑の逆転が起こっていくのです。
実はこの逆転の陰には、サウルの息子、ヨナタンの信仰がありました。一昨日分かち合いましたが、彼は、神様に信頼するなら必ず勝利をおさめさせてくださる、そう信じてなんと、道具もちとたった2人でペリシテ陣営に乗り込み勝利をおさめていきます。先ほどサウルは民の評判を気にしていた、と書きましたが、ヨナタンは逆。もし、民の評判を気にするなら、こっそりではなく、私たちはこれから戦いに出ていく、と言ってこっそりなど行かない。
ここに2人の大きな差があった。民の評判を気にしていたサウルはその王権を失っていく。何を恐れていたのか。これはとても大事な話で、私たちは何よりも神様の恵みを失うことを恐れてはいけない。ほかの人の評判を気にして、ほかの人が奇異な目で自分たちを見るから、神様を信じることをあきらめる、やめるんじゃない、また自分に栄光を求め、神様から離れていく事をむしろ恐れなければならない。
神様は、何を私たちにもたらしたいのか?↑の戦いを見ても明らかです。私たちが神様に信頼するとき、最初借りに敗北しているように見える、恐れるような状況にあってもそれを逆転される。神様に信頼せずに右往左往するサウルの仲間たち。しかし神様は、信仰をもって神様の恵みを求め出ていったヨナタンを通して逆転、勝利をもたらし、彼らは、ペリシテがむしろ混乱、同士討ち、大騒動となっていくのを目撃することとなるのです。
私たちは神様を見ずに求めずに、様々な世の思い煩いの前に右往左往する。でも、隠れていた民がこの勝利の輪に加わろうと出てきたように、私たちがこの神様のなさろうとする計画、御心に信頼し、一歩踏み出す時、私たちはこの恵みに加わることができるのです。私たちは何を恐れ気にしているのですか?あっちの目を気にして、こっちの目を気にして、どっちつかずになって。神様を信じ切れずに、あっちに頼り、こっちに頼り、右往左往する。いつまでもそんなことをしているのだろう?
しかし、神様の愛はストレートですよ?こんなサウルを「まだ」見捨てなかったように、神様は、私たちが滅びゆくことを見過ごすことなどできないのです。神様は、私たちを見捨てることができず、神の御子たるイエス様を、惜しむことなく遣わしてくださった。同じ人間となってまで生まれさせてくださった。神様の権威を捨てること、これを躊躇しなかった。あなたを救うためなら、と、サウルの知らないところでヨナタンが戦いに出て行って大逆転を起こされたように、私たちが知らないだけで、神様の愛は私たちの内に注がれているのです。
なぜそこまで神様はあなたに介入されようとされるのか?サウルは神様の介入よりも自分の栄誉を求めていましたが、神様は、罪に、世の思い煩いに、悲しみに、痛みに支配されているあなたを放置できない。あなたを支配したいから介入したいのではない、本来あるべき神様の恵みをあなたが受け、本来あるべきあなたの姿を取り戻すために、その御手を伸ばされているのです。動機は愛です、あなたへの。
神様を信じることは恥ですか?神様は神様を捨てるあなたを救うことを恥とはせずに、むしろ私たちの恥を身代わりに受けて下さった。神の御子が人となる、そんな普通に考えたら恥ずかしいことなど関係なかった。どんなに民に馬鹿にされようとも、ツバキを吐き掛けられようとも、裏切られようとも、民を見捨てなかった。
十字架にかかられている時、周りから、十字架から降りてみろ、そうしたら信じてやるから、と馬鹿にされても降りることはしなかった。見捨てて天に帰ることもできた。でも、それをしなかった。十字架上でどんなにののしられても、「父よ、彼らをお許しください。彼らは自分たちで何をしているのか分からないのです」と赦しを懇願されたのです。わが神我が神、どうして私を見捨てられたのですか、と叫びながらも、そんな状態になっても、あなたを愛することをやめなかった。
あなたを罪の内から、罪の報酬・死から解き放つため、神様から離れ、本当の命を、恵みを知らずに、救い主、神様を知らずに、その素晴らしさを信じられずに、自分の見栄を張り生きる私たちを、それでも憐れまれたのです。そして、最後まで十字架から降りることなく、神様にその霊をゆだねられた。どうして見捨てられたのか、と叫びながら、それでも差し出された。どうか、この命をもって私たち人間の罪の代価としてください、と。
これを受け取られた神様は、3日目にイエス様をよみがえらせ、神様と私たちを和解させてくださった。私たちのいのちを、御子イエス様のこの救いによって、赦され、罪の奴隷から神様の子とされたのです。復活のイエス様が、命まであなたのために投げ出されるほどに愛されるイエス様があなたの内に住まわれ、その道を、この困難の世を切り開かれ、勝利の行列に加えて下さるのです。世の終わりまで導かれるのです。
私たちは今日、何を気にし、何を恐れるだろう?私たちはただこの神様の下さる恵みに生きよう。この十字架によってサタンの支配は、世の思い煩いは打ち砕かれる。私たちはサウルのように見栄を張る必要はない、神様が、その愛をもって、御心をもって本来あるべき素晴らしいあなたへと日々日々変え、導かれるから。もう私たちはあっちこっち心を右往左往させず、ただまっすぐに神様の御心に、イエス様の命によって開かれたこの道をまっすぐに歩もうではありませんか。
