-離れ去るのが本当に怖いのは- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「サウルは三十歳で王となり、十二年間イスラエルの王であった。サウルはイスラエルから三千人を選んだ。二千人はサウルとともにミクマスとベテルの山地におり、千人はヨナタンとともにベニヤミンのギブアにいた。残りの民は、それぞれ自分の天幕に帰した。ヨナタンはゲバにいたペリシテ人の守備隊長を打ち殺した。ペリシテ人はこれを聞いた。サウルは国中に角笛を吹き鳴らし、『ヘブル人よ。聞け』と言わせた。…こうして民はギルガルのサウルのもとに集合した。ペリシテ人もイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民であった。彼らは上って来て、ベテ・アベンの東、ミクマスに陣を敷いた。イスラエルの人々は、民がひどく圧迫されて、自分たちが危険なのを見た。そこで、ほら穴や、奥まった所、岩間、地下室、水ための中に隠れた。…サウルはなおギルガルにとどまり、民はみな、震えながら彼に従っていた。サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。それで民は彼から離れて散って行こうとした。そこでサウルは、『全焼のいけにえと和解のいけにえを私のところに持って来なさい』と言った。こうして彼は全焼のいけにえをささげた。ちょうど彼が全焼のいけにえをささげ終わったとき、サムエルがやって来た。サウルは彼を迎えに出てあいさつした。サムエルは言った。『あなたは、なんということをしたのか。』サウルは答えた。『民が私から離れ去って行こうとし、また、あなたも定められた日にお見えにならず、ペリシテ人がミクマスに集まったのを見たからです。今にもペリシテ人がギルガルの私のところに下って来ようとしているのに、私は、まだ主に嘆願していないと考え、思い切って全焼のいけにえをささげたのです。』サムエルはサウルに言った。『あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに。今は、あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を求め、主はその人をご自分の民の君主に任命しておられる。あなたが、主の命じられたことを守らなかったからだ。』」

Ⅰサムエル記13章1-14節

 

人は何かを失うことを恐れる。家族?仕事?経済?様々でしょう。でも、もっとも私たちが失ってはいけないのは神様。神様の恵み。神様は恵みを注ぎたい、でも私たちが神様から離れていては本当の恵みを私たちは得られないし、生きた者になれない。私たちはこの神様から離れず、歩もうではありませんか。

 

さて、↑は古代イスラエル王国建国時の話。神様はエジプトの奴隷としてとらえられた民を助け、導き、養って、共に戦い歩んできた。はずなのに、彼らは神様を捨てる。ピンチが来るとまた神様を求める、の繰り返しだった。それでも、サムエルという預言者というか祭司というか士師(裁き司)を通して神様が彼らを助け導き、ある程度民族として安定してきた。

 

しかし、そのサムエルが年老いて、子供たちがまともな政を行わない、裁きを曲げるなどでもうだめだ、と他国のように王を民は求め始めるのでした。ようするに、サムエルに対しても、実は根っこで神様ではなくサムエルという人間、自分たちを優位に導く、自分たちの求めに応じる存在を求め、神様を彼らは見てなかった。

 

しかしそれでも神様は彼らを憐れみ、ならば「神様が」王を選ぶ、とサウルというベニヤミン族出身(かつて暴動を起こし、イスラエル民族から断絶されそうになっていた)の人を王として選びだしたのでした。そう、神様はその恵みを注ごうとしていた。それでも、彼らが神様に立ち返るなら、という思いが込められていたのではないか、と思う。しかも彼の治世は12年続いたという。

 

神様は彼の治世を、見捨てず、そばにサムエルを置いて、彼を通して助け導いてきていた。だから、最初彼に反対していた人たちももはや引きずりおろそうと思わず、12年続いたのか、と思う。

 

12年、長いか短いか、それをどうとらえるかは人それぞれ。でも、どんなに長くても短くても、神様がそれを支え導き祝福しなければ何の意味もなさない。神様が祝福される人生は長くても短くとも豊かなものとなる。いや、神様がしてくださる。だから私たちはこの神様から離れてはいけないし、サウルに、神様はサムエルをそばに置き助けていた。その信頼があるからこそ、↑での戦いでぎりぎりまでサムエルをサウルは待っていたのではないか。

 

彼の実績、彼がこれまで勝利をおさめてきたものの、今回の戦いではさすがに厳しい、と民たちはペリシテ軍を恐れ、隠れます。しかし、サウル自身このままでは勝てないのは明白、だからサムエルを待っていた。でもいつまでたっても約束の7日間が過ぎても来ない。このまま自分の恐れている姿を民に見せては民の心は離れていってしまう。このままではまずい、と考えたサウル王は、祭司にしか許されていない行為を行うのでした。

 

しかしそれを見たサムエルは叱責します。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。主は今、イスラエルにあなたの王国を永遠に確立されたであろうに」と。遅れたサムエルが悪いのでは?と思う人がいるかもしれない。サウル王自身も一応神様にいけにえを捧げたんだし、頼ったっぽいし、何が問題なの?と思うかもしれない。

 

でも、実はサウルの献げたいけにえの行為、これは神様を頼ったのではなく、↑でサウルが明確に、「民が私から離れ去って行こうとし」と、第一にその理由を挙げた。サムエル、あなたが遅れたので、しかたなく、ではなく、民の心が離れていく事、それによって自分の名声が失われていく事を恐れたのです。

 

名声は誰によって与えられるのですか?神様です。神様が私たちをその御心によって形作られ導かれる。その神様から離れれば、神様の与えようとしている最高のあなたを失うのは言うまでもない。むしろ、神様に繋がり、神様の家族とされること以上の恵みはないのではないだろうか。

 

私たちは何かを失うことを恐れるけど、神様を失うこと以上に恐れるべきことなどあるのだろうか?民が離れていく事よりも、神様の恵みが離れていく事の方がよっぽど恐ろしい話ではないか。神様があなたを最高のあなたへと日々日々近づけ、与えて下さる。ところが、民の名声、成功、人生の栄誉などによって自分を塗り固めようと、そんなものはあっという間に過ぎ去っていく。神様がその治世を導いてくださっている、そのことを忘れてどうして、あるべき最高の姿を保てるだろう。それを保たせてくださるのは神様なのに。

 

7日間何をじゃあサムエルはしていた?むしろ神様はこの戦いの勝利の準備、ないしこの忍耐を通してなお神様の恵みに頼ることを知るときとしていたのではないか、と思う。

 

私たちは、自分たちの心を神様から離れさせてしまった。神様が離れたのではない、私たちが神様から離れた。それが罪という。しかし神様はそれでも私たちへの思いを、愛を離れさせることができず、御子イエス様をお遣わしになり、遅れることなく、私たちが滅びることがないよう、来られた。そして惜しむことなく、どんなに裏切られても、その戦いの、罪との戦いの最前線に来られ、十字架で私たちの罪の身代わりにかけられ、死なれた。執り成し祈られた。父よ、彼らをお許しください、彼らは自分たちで何をしているのか分からないのです、と懇願された。この懇願、自らが和解の生贄となって私たちの罪を赦そうとされた。この和解によって私たちにその恵みをもたらそうとされたのです。

 

この愛から私たちは離れてはいけない。復活のイエス様はあなたを世の終わりまで導こうとされる。ご自身の命まで惜しまず与えた方が。だからこそ私たちはこの神様から離れることを恐れなければいけない。むしろこの神様から目を離さず歩み続けよう、神様の御せて下さるご計画、御心、勝利に信頼し。離れ去ることのない永遠の恵みに。