-人の評価はそれぞれ、でも大事なのは- | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「サムエルはミツパで、民を主のもとに呼び集め、イスラエル人に言った。『イスラエルの神、主はこう仰せられる。【わたしはイスラエルをエジプトから連れ上り、あなたがたを、エジプトの手と、あなたがたをしいたげていたすべての王国の手から、救い出した。】ところで、あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、【いや、私たちの上に王を立ててください】と言った。今、あなたがたは、部族ごとに、分団ごとに、主の前に出なさい。』こうしてサムエルは、イスラエルの全部族を近づけた。するとベニヤミンの部族がくじで取り分けられた。それでベニヤミンの部族を、その氏族ごとに近づけたところ、マテリの氏族が取り分けられ、そしてキシュの子サウルが取り分けられた。そこで人々はサウルを捜したが、見つからなかった。それで人々がまた、主に、『あの人はもう、ここに来ているのですか』と尋ねた。主は、『見よ。彼は荷物の間に隠れている』と言われた。人々は走って行って、そこから彼を連れて来た。サウルが民の中に立つと、民のだれよりも、肩から上だけ高かった。サムエルは民のすべてに言った。『見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない。』民はみな、喜び叫んで、『王さま。ばんざい』と言った。サムエルは民に王の責任を告げ、それを文書にしるして主の前に納めた。こうしてサムエルは民をみな、それぞれ自分の家へ帰した。サウルもまた、ギブアの自分の家へ帰った。神に心を動かされた勇者は、彼について行った。しかし、よこしまな者たちは、『この者がどうしてわれわれを救えよう』と言って軽蔑し、彼に贈り物を持って来なかった。しかしサウルは黙っていた。」

Ⅰサムエル記10章17-27節

 

人があなたを見る方法は、それぞれの価値観をもって見てくる。どうやっても100人いるなら、100人すべて受け入れてもらえる、なんてことは無理。それをしようと自分を曲げるなら八方美人となりますし、それが、今度は受け入れていたはずの人が名晴れていく事にもなる。それはたぶん仕事や学校、人間関係を見ていれば分かると思う。でも、大事なのは、神様があなたをどう思っておられるのか、それにどうこたえるか、そこにある。神様はあなたを愛し、あなたを導かれる。あなたは?

 

さて、↑は古代イスラエル王国建国の時の物語。これまで見てきた通り、神様はベニヤミン族という、ちょっと残虐な行為を行った民族がイスラエルから切り捨てられそうになるのを哀れまれ、彼らに御手を伸ばし、なんと初代イスラエル王に、そのベニヤミン族から王を起こすのでした。それは神様は、彼らを見捨てていなかった何よりの証拠ではないか。罪を犯せばその報酬、刑罰はある、しかし、神様はただ罰して終わりではなく、私たちが返ってくることを何より望む。

 

だから、神様はサウルを、預言者サムエルのいる街に導き、彼らは神様にあって結ばれ(変な意味ではないですよ?)サウルに油を注ぎ(神様から承認を受けた、その祝福の約束)サウルは王となっていくのでした。

 

しかし、それはサウルとサムエル、神様しか知らず、民は知りません。民は王を求めててはいたものの、だれがいつ選ばれるのかもわからない。そこでサムエルはミツパという町に民を集め、王を紹介します。その時のサムエルの言葉が気になりますね。「『わたしはイスラエルをエジプトから連れ上り、あなたがたを、エジプトの手と、あなたがたをしいたげていたすべての王国の手から、救い出した。』ところで、あなたがたはきょう、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください』と言った」とわざわざ彼らの問題を指摘した。

 

王は決まっているんだからいいじゃないか、と思いたくなるところ、なんでそんな回りくどいことを言うの?と思うかもしれない。でもそうじゃない。彼らは神様を退けた。でも、どんなに王をたてても、彼らが神様から目をそらし、いや神様を退けている内はそこに恵みはない。事実、サウルが神様から離れ始めると、イスラエルはペリシテに苦しめられていくこととなる。だってそうでしょう?神様は守りたい、でも拒否する、そうなれば結果は明白。

 

私たちは自分を本当に誇りたくなる。知識、学歴、職業…でも、それが何なのだろう?それを正しく用いなければやがてすたれていく。それらを与えたのは誰ですか?あなたの役割に、あなたの遣わされた場所にあなたを置かれた、生かされた、油を注がれた、召し出されたのは誰ですか?神様です。この神様の御心を私たちは求めなければいけない、私たちを救い出す神様から目を離してはいけないし、退けてはならないのです。

 

そんなの私たちの勝手、自由でしょう?と人は言うかもしれない。でも、人の評価はその人の価値でする。その評価に振り回されてどうしますか。でも神様があなたを底に置き、あなたにその役割を与えているなら、私たちは世の価値に、罪に、思い煩いに振り回されてはいけないのです。サムエルは、これから王政が始まる中で、王がたっても、王自身、そして民自身、神様を退けるのではなく、神様の御心を、ご当地を受け入れる、その中で、国は反映していくはずなのです。私たちもです。

 

サムエルは1つ1つの部族に神様の前に進み出るようにいいます。役割はそれぞれ。王に選ばれなかった部族をじゃあ神様は捨てるのかと言ったら違う、王を支える部族、役割、それぞれある。その中で、与えられた役割に、サウルのように隠れる必要はない。サウルは王としての役割が与えられた、あなたにはあなたへの役割を神様は与えて下さっている。あなたには生きる意味、生きている意味がある。

 

また、サムエルは選ばれたサウルを民に示し、「見よ。主がお選びになったこの人を。民のうちだれも、この人に並ぶ者はいない」と民に語った。私たちが見るのは、仕事とかそういうものではない、そのうちに働かれる、そこにおかれた神様ご自身を、あなたや周りを通して働かれる神様の御業を、御心を、愛を、御力を見るよう訴えるのです。

 

それに対して、ある者は「王様万歳」と喜び叫ぶ。王を喜んだのか?王政ができることを喜んだのか、それとも神様ご自身が選ばれたこの人に期待するのか?また、よこしまなものがいうように、こんなものは認めない、神様の選ばれたことを、働かれていることを認めない、と退けるのか。まあ、実際ベニヤミン族、ということを考えればその歴史を考えると認めたくない気持ちもわからないこともないのですが。

 

私たちの歩む道は様々な問題があります。それこそベニヤミン族の問題から認めたくなくなるような問題も。しかし、私たちは忘れてはいけない。神様がお選びになった方を、その人の内に働く愛を、御業を。

 

神様は、私たちの救い主として御子イエス様を人となって生まれさせてくださった。神であられるのに。遠く離れた存在ではなく、最も近い存在として、罪を犯さないという点を除いて全く同じ人間となってまで来られた。私たちが見えるように、どのように歩めばいいのか示すため、その道となられたのです。神様の御心を、愛を、現された。私たちはこの究極の、神様のお選びになったイエス様を見つめなければいけない。

 

イエス様は、ただ人となって生まれてきてくださったのではない。私たちの罪を身代わりに背負われ十字架にかかられ死なれた。命を差し出してまでもあなたを愛することを選ばれた。しかし3日目によみがえられたことによって、私たちは神様と結ばれたのです。あなたを保証するのは、この命掛けの愛をもってあなたを救われたイエス様なのです。

 

私たちはこの十字架による救いを仰ぎ見よう。そこまでされてまで愛されたイエス様のなされる御業に大いに期待しよう。私たちには信じられないようなことであろうとも、このイエス様のなされる大いなる御業に期待し、祈り求め、歩もう。