「サウルは、門の中でサムエルに近づいたとき、言った。『予見者の家はどこですか。教えてください。』サムエルはサウルに答えて言った。『私がその予見者です。この先のあの高き所に上りなさい。きょう、あなたがたは私といっしょに食事をすることになっています。あしたの朝、私があなたをお送りしましょう。あなたの心にあることを全部、明かしましょう。三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。』サウルは答えて言った。『私はイスラエルの部族のうちの最も小さいベニヤミン人ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、つまらないものではありませんか。どうしてあなたはこのようなことを私に言われるのですか。』しかし、サムエルはサウルとその若い者を広間に連れて入り、三十人ほどの招かれた者の上座に彼らを着かせた。サムエルが料理人に、『取っておくようにと言って渡しておいた分を下さい』と言うと、料理人は、ももとその上の部分とを取り出し、それをサウルの前に置いた。そこでサムエルは言った。『あなたの前に置かれたのは取っておいたものです。お食べなさい。私が客を招いたからと民に言って、この時のため、あなたに取っておいたのです。』その日、サウルはサムエルといっしょに食事をした。それから彼らは高き所から町に下って来た。サムエルはサウルと屋上で話をした。朝早く、夜が明けかかると、サムエルは屋上のサウルを呼んで言った。『起きてください。お送りしましょう。』サウルは起きて、サムエルとふたりで外に出た。彼らは、町はずれに下って来ていた。サムエルはサウルに言った。『この若い者に、私たちより先に行くように言ってください。若い者が先に行ったら、あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから。』」
Ⅰサムエル記9章18-27節
上座、というのは基本的には立場が上の人が座るもの。私たちの人生の上座には今、誰が座っているだろうか?もし神様が、そこに座っておられるなら、あなたはこの神様のもてなす大いなる恵みにあずかることができる。私たちが偉い必要はない。私たちはこの神様に生かされ、歩もう。
さて、↑古代イスラエル王国が建国されるときに起こった出来事。神様は初代イスラエル王国の王にサウルというベニヤミン族出身の人を選びました。昨日も書きましたが、彼は確かに容姿端麗でしたが、彼の出身のベニヤミン族は強姦殺人を同族イスラエルに対して起こし、戦争になりかけ、ついにはイスラエルから切り離されそうになるほどに問題を起こした一族。神様はそんな彼らを神様が選ばれた。
神様は、誰に対しても恵みを注ぎたい。形はそれぞれ違うかもしれない。でもあなたにはあなたへの、隣の人には隣の人への神様の計画がある。いちいちうらやむ必要はないのです。十戒の中にも隣人のものを欲しがってはならない、と書いてありますが、それは貧しい暮らしをする、という意味ではなく、あなたにはあなたへの神様の恵みが用意されているのだから、隣人のものをうらやむ必要はないのです。
よく、知識を自慢する人を見かける。でも、どんなに知識を披露してもむなしいものだ。どうして?だって、それはその人の功績ではなく、ただ単なる自慢話であって、人を疲れさせる。そして、最後はだから何?と思われてしまう。その知識をくださる方、あなたを生かす方のすばらしさを私たちは味わっていなければ何の意味もないのです。素晴らしいのは神様。神様があなたに十分な恵みをくださっている、それで十分ではないか。むしろその下さっている恵みをないがしろにせず、受け取りにいかなければならないのではないか。
↑の本題に話を戻して、神様は、サウルの父の雌ロバを迷子にさせることによって、サウルと、預言者・士師のサムエルを出会わせました。そしてこの出会いによって神様の御心を、ご計画を現そうとされた。最初は諦めていたサウルも、若者の助言によってサウルの家に向かうこととなったのでした。
ところが、ここで驚くべきことが起こります。神様に導かれてサムエルはサウルを家に迎え入れることとなるわけですが、立場的にはサムエルのほうが上です。イスラエルを導きリードしてきていたわけですし。そんな少数民族、切り捨てられるはずだったベニヤミン族の者ですよ?その彼、サウルをなんと、上座に座るように導いたのです。本来はサムエルが上座に座るべきなのに。
これは本当に不思議で、王となる人間と決まっているから上座に座らせたのか?というのがまあ大半の意見。半分はそれで正解だと思う。でも、それだけではない。実は新約聖書の中の話の中に見えてくる。
神の御子イエス様は、こんな話をされました。「招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。『婚礼の披露宴に招かれたときには、上座にすわってはいけません。あなたより身分の高い人が、招かれているかもしれないし、あなたやその人を招いた人が来て、『この人に席を譲ってください』とあなたに言うなら、そのときあなたは恥をかいて、末席に着かなければならないでしょう。招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、【どうぞもっと上席にお進みください】と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』」と。
イエス様は進んで上座につくことを進めず、かえって末席に進んで座ることを進めます。それはむしろ、上座に座る人から恵みを受けるため。引き上げられていくのです。自分を高く見せても、神様の前に私たちは恥じ入るばかり。どんなに自分を強く見せても、それは張りぼてにしかならない。先ほどの知識をひけらかす人たちの話でもそう。自分をどれだけ優れているように見せても、それはその人の栄光ではない。
しかし、本当に素晴らしいのは神様であり、私たちの人生の上座に座っているべき方は神様です。神様が、私たちを食事の席に招き、神様が、サムエルが「あなたの前に置かれたのは取っておいたものです。お食べなさい。私が客を招いたからと民に言って、この時のため、あなたに取っておいたのです」といったように、私たちのためにとっておいた最高のもの、取り分けておいた最高の恵み、御心、愛、ご計画を味わわせていただけるのです。神様が、私たちに、ですよ?
サムエルは神様の代理として行動している。まさに、サウルを、この神様の恵みの御座に、恵みに招き入れているのです。本来味わうべき恵みに。まあ、謙遜な王となる事を導いたのかもしれませんが。時が来れば神様は必ず、どんなに罪深くとも、弱く小さな者であろうと、神様の恵みの御座に、神様の子へと、家族へと引き合え、神様の下さる食事、御心を、御業を味わわせていただく時がくる。勝利の時が来る。あなたを苦しめる敵を治める日が来る。
これは昔の話だけでは終わらない。神様は、御子イエス様を私たちの罪を赦し、神様の子へと引き上げるため、同じ人間として生まれさせ、生きさせ、私たちの罪を身代わりに背負わせ十字架上で罰し、死なせた。そして3日目によみがえられたことによって、イエス様の十字架の前に悔い改め近づくすべての人を罪の奴隷から、神様の子へと引き上げられるのです。下座、末席の端の端から、神様の恵みの御座へと。
私たちは人生の上座に座る必要はない。神様が、あなたを神様の最高の計画へと引き上げて下さる。この御子イエス様の命にかけて。サムエルはサウルのもとにとどまり神様の言葉を聞かせる、といったように神様はあなたを導くため日々語られる。私たちはこの命がけの愛を実行に移される神様の御声に聞き従い歩もう。この神様の導かれる道をまっすぐに歩ませていただこう。