ー無条件の愛か、条件付きの愛か2:取引しないー | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「こうしてヤコブは彼のところに一か月滞在した。そのとき、ラバンはヤコブに言った。『あなたが私の親類だからといって、ただで私に仕えることもなかろう。どういう報酬がほしいか、言ってください。』ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。ヤコブはラケルを愛していた。それで、『私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう』と言った。するとラバンは、『娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい』と言った。ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。ヤコブはラバンに申し出た。『私の妻を下さい。期間も満了したのですから。私は彼女のところに入りたいのです。』そこでラバンは、その所の人々をみな集めて祝宴を催した。夕方になって、ラバンはその娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせたので、ヤコブは彼女のところに入った。…朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。『何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。』ラバンは答えた。『われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。』ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の週を過ごした。それでラバンはその娘ラケルを彼に妻として与えた。…ヤコブはこうして、ラケルのところにも入った。ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。」

創世記29章14b-30節

 

ギブアンドテイク、ある意味でこれによって世の中のシステムによって成立している。お金で商品を買う、これをしてくれる人と仲良くしよう、などなど。しかし、取引によって成り立つ関係って本当に正しいのだろうか?神様は、取引によってあなたと関係を結ぶのではなく、御子イエス様の命をまず差し出されたことによって、私たちと命の関係を結ばれる。私たちはこの命の関係に生きよう。

 

さて、↑はイスラエル民族の草創期、アブラハムの息子イサク、その息子ヤコブの旅の道中の話。彼は父と兄を騙し、神様の祝福が欲しかったからとはいえ、ある意味で取引によって長子の権利(詳しくはここ最近の投稿参照)を獲得し、祝福をもだまし取り、父はこれは神様の御心だった、と神様の前に悔い改めますが、エサウに命を狙われ、逃亡劇が始まった。

 

ただ、神様はそのようにだまし取ったヤコブをそれでも見捨てず、導き、彼が回復するための訓練期間となる場所へと導かれたのでした。父、母がこのラバンの家から嫁さんをもらいなさい、と言っていた場所でもありますが。

 

↑はそのヤコブが結婚していくその話。ちなみに↑で二人の嫁さん、二人の奴隷を得、結果彼らから12部族が生まれ、その彼らを通して民族が広がり、やがて国家になっていく。一度イスラエルは崩壊するも、その民族は確かに残り、バビロン捕囚、ローマ帝国の弾圧、アウシュビッツなどと言った最悪の迫害がありながらも、なおも彼らは神様を捨てず、イスラエルに帰って今もその民族は存続し続けていますね。

 

話は横道に逸れましたが、ラバンのもとにたどり着いたヤコブはとりあえず、ここでお世話になることになりました。ラバンには、のちの章に登場しますが男の子供もいましたが、どこか頼りない、それをラバン自身もわかってか、彼がいた方が助かる、と考え、何か欲しい報酬はないか、とヤコブに尋ね、ヤコブも、お気に入りのラケルと結婚したい、と申し出ます。しかも、ラケルと結婚できるなら、ここで7年、ただ働きしましょう、というのです。しかし、7年の満期が過ぎ、いよいよ婚礼の時、となったとき、ラバンはレアとラケルをすり替えるのでした。何ととんでもない話。

 

ちなみに、レアは目が弱弱しい、という風に書いてありますが、別に容姿に問題があったわけではありません。勝手に勘違いして、聖書の漫画でそんな風に扱われたり、下手をしたら、ヤコブとラケルの恋愛を横取りした女性として印象付けられることもしばしば。

 

しかし、レアという女性、この先の個所にも出てくるのですが、本当に素晴らしい女性、信仰をしっかりと持った女性なんです。普通なら、愛されていないとわかっていて、父ラバンの策略があったとしても、どうして受け入れることができますか、こんなこと。自分にとっては正直不利益。ヤコブがラケルを愛していることは知っていた。それでも、神様が彼女を導かれていた、だから彼女は神様と取引をするのではなく、神様の御心の前に心を開き、受け入れた。実はその彼女の子孫から王は誕生し、さらには救い主イエスの系図に組み込まれていく。

 

私たちは目先のことを考え、取引を誰これと行っていく。神様とさえ。これをしてくれたら信じるよ、もしくはこれだけ良い事をするから、ちゃんと答えてよね、とか。ラバンは労働力獲得のために、ヤコブを利用し、ヤコブはラケルと結婚するためならと頑張るも、レアをどれだけ傷つけることとなったのだろう。その事はこの続きの個所で明らか。確かに自分の欲するもののために頑張る、努力する、それは間違ってはいないかもしれない。

 

でも、もしそれが神様に対してだったらどうなのだろうか。神様があれをしてくれるならこれをくれるなら、私は一生捧げましょう、なんて話がアマデウスという音楽家の話の中でありましたね。モーツァルトを妬んで。じゃあ神様は私たちに何も与えてくださっていないのだろうか?神様のくださっているものはそんなにダメなのだろうか?取引をしなければ神様が最高のものを与えて下さらないのだろうか?

 

ラバンの策略はあったにしても、レアをヤコブに与えたのは神様です。もちろんラケルも素晴らしい女性の一人。でも、いずれにしてもいえることは、重婚問題は横に置いておいて(重婚、不倫、浮気、はっきり言ってろくな結果にならないので、これはだめです)私たちは神様から与えられている人、物、状況、環境にしっかりと感謝しつつ、目を留めるべきです。二人との結婚についても、ラバンに騙されたことについても、7年間の仕事についても、神様にしっかりと目を向け、ならどうしたらしいのか?結果、だまされるとはいえヤコブは神様の御前に整えられていく。本来神様が与えようとしていた最高のヤコブに整えられていく。変えられていく。

 

確かに、ラバンがヤコブを騙したように理不尽なことは生きていれば必ずある。その中で私たちは神様に目を向けよう。神様に祈ろう。レアの如く、神様が導かれたその道にゆだねよう。この個所を、あきらめずに頑張っていれば自分の欲するものが必ず手に入る、という結論で考えてはいけない。神様はどんな時にあっても善であり、善を必ず行われる方。だからこの方に信頼しようではありませんか。

 

何せ神様は、あなたを取引によって救う、どころか、まず神の御子たるイエス様を人として生まれさせ、どんなに罵られ、裏切られてもその愛を注ぎ、最後は私たちの罪を身代りに背負われ十字架にかかられ、死なれた。神様から、この御子イエス様の命をあなたの前に差し出し、さあ、帰っておいで、いのちを得なさい、神様の命のうち、養いの内に留まりなさい、1か月と言わず、永遠に神様の御心の内に、と招かれたのです。復活のイエス様が、あなたの内に住まわれ、導かれるから、と。

 

それは回復までの期間、長く感じるかもしれない。しかし神様の愛はあなたを諦めない。御子イエス様委の命と共にあなたに最善を与えてくださっている。何せこの方の命によって取り戻されたあなたなのだから。大いに、このイエス様に期待し、歩もうではありませんか。