―誰が何で印を押したのか― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「印を押した者は次のとおりである。ハカルヤの子の総督ネヘミヤ、およびゼデキヤ、セラヤ、アザルヤ、エレミヤ、パシュフル、アマルヤ、マルキヤ、ハトシュ、シェバヌヤ、マルク、ハリム、メレモテ、オバデヤ、ダニエル、ギネトン、バルク、メシュラム、アビヤ、ミヤミン、マアズヤ、ビルガイ、シェマヤ。以上は祭司たちであった。次にレビ人たちでは、アザヌヤの子ヨシュア、ヘナダデの子らのうちのビヌイ、カデミエル、および、彼らの親類シェバヌヤ、ホディヤ、ケリタ、ペラヤ、ハナン、ミカ、レホブ、ハシャブヤ、ザクル、シェレベヤ、シェバヌヤ、ホディヤ、バニ、ベニヌ。次に民のかしらたちでは、パルオシュ、パハテ・モアブ、エラム、ザト、バニ、ブニ、アズガデ、ベバイ、アドニヤ、ビグワイ、アディン、アテル、ヒゼキヤ、アズル、ホディヤ、ハシュム、ベツァイ、ハリフ、アナトテ、ネバイ、マグピアシュ、メシュラム、ヘジル、メシェザブエル、ツァドク、ヤドア、ペラテヤ、ハナン、アナヤ、ホセア、ハナヌヤ、ハシュブ、ロヘシュ、ピルハ、ショベク、レフム、ハシャブナ、マアセヤ、アヒヤ、ハナン、アナン、マルク、ハリム、バアナ。このほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、宮に仕えるしもべたち、また、国々の民と縁を絶って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち、すべて理解できるまでになった者は、彼らの親類のすぐれた人々にたより、神のしもべモーセを通して与えられた神の律法に従って歩み、私たちの主、主のすべての命令、その定めとおきてを守り行なうための、のろいと誓いとに加わった。」

ネヘミヤ記10章1-29節

 

神様「を」知らない、という人「いても、神様「が」知らない人はいない。一人一人の名前を知っている。どんな人なのかも。神様は願わくばすべての人が救われること、これこそが願い。命の内に歩んでほしい、罪の支配という名の呪いに縛り付けられてほしくない。神様はあなたの名前を今日覚え、愛を注がれようとしている。神様は求める者には最高の良いものを与えてくださるから。

 

↑は紀元前445年ごろ。バビロン捕囚から解放され、イスラエルに帰ってきたユダヤ人たち。現地人の妨害や、現実生活を見て、荒廃とした大地を見て落胆していた民に神様はネヘミヤやエズラ、ハガイ、ゼカリヤといった預言者を通して多くの言葉であったり、具体的な助けを与えながら、民を導き、敵から守られ、ついに神殿は再建され、祭りを行い、また神様の素晴らしさを思い出しながら神様と共に歩む、その祈りと決断をしたのでした。

 

というよりも、神様と堅い盟約を結んだ。神様の家族・民とされた。↑は、この盟約、文書に印を押した、誓った人々の名前が羅列されているわけですが、読んでいて誰?この人、と多くの人たちが思ったと思います。私もです。正直な話、たぶん、専門書とかを開かないとこの人は誰、と言える人は数えるくらいしかいないくらい。

 

でも、なぜネヘミヤを通して神様は「聖書に」この名前を一人逃さず記したのだろう? それは、神様にとって、活躍した人、これだけの善行を積んだ人、その人を覚えるよ、というわけではない、ということ。

 

↑を見ると、今回の神殿再建・城壁再建の中心となったネヘミヤだけでなく、神様に立ち返り、印を押した全ての名前が残された。神様にとってあなたという存在はその他大勢の中の一人。「何かをした人『たち』」ではなく、神様を求め立ち返ってきた『大切な』一人なのです。

 

上に名前の記された人たちは「祭司」とか「レビ人」とたいそうな名前がついていますが、彼らはそもそも、神様に逆らい、捕囚されていった民じゃないですか。。だから、神様の目から見たら、「捕囚から帰ってきた人たち」とひとくくりで見てもいい。でも、神様の前に悔い改めるあなたはあなたなのです。その他大勢じゃない。

 

イエス様はある時たとえばなしをされました。「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。

 

何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。【お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。】』

 

こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。」

 

この例え話を見てどう思います?聞いてどう感じます?自業自得と思うでしょう?でも、悔い改めてお父さんの家に帰ってきたとき、お父さんは「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」と言った。神様にとって悔い改め、方向転換し、帰ってきたなら「息子」なんです。

 

弟息子は、奴隷でもいい、召使いでもいい、そう覚悟していた。でも、お父さんは、まずあれをしてこれをして、善行を積んで、反省の姿が見えたらしょうがないから許して家の敷地をまたがせよう、と言ったのではなく、まず受け入れ、息子と呼び、こともあろうに、「一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか」というのです。

 

神様にとって、祭司(神様と人をとりなす人)、レビ人(その一族で祭司を支える)であろうと関係ない。ネヘミヤだけじゃない、「ほかの民、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、宮に仕えるしもべたち、また、国々の民と縁を絶って神の律法についた者全員、その妻、息子、娘たち」みんな、覚えておられる。立場なんて関係ない。私たちが神様に立ち返る時、神様はその人の名前を覚え、その盟約を堅く果たされる。

 

イエス様は、十字架にかかる前の裁判で、死刑囚かイエス様のどちらかを釈放する、と言われた時、民は、死刑囚を選んだ。でも文句は言わなかった。このひとりがもし悔改めるなら、それで十分だ、と。そして一人一人を覚え、この死刑囚を覚え、十字架上、最後の最後に悔い改めた人を覚え、その罪を背負われ十字架にかかられ死なれた。そして3日目によみがえられたことによって、このイエス様の命の前に、悔い改め立ち返るすべて、一人一人、名前を覚え、盟約を結ばれ、神様の子とされる。息子・娘としてくださるのです。

 

命を懸けてまで、あなたという人と、この十字架によって盟約、いのちの関係を結ばれ、これゆえに、神様の御心を現される。名前だけ知っている、ではなく一人一人に神様はその愛を現し御心を現される。私たちも、信じた、はい終わり、ではなく、この命の関係に生きよう、神様の御心を現してください、と祈りまた従い歩もう。あなたに御子イエス様にあって与えられる一番の御心に大いに期待しよう。