―消し去られず、むしろ空の星のように― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「その月の二十四日に、イスラエル人は断食をし、荒布を着け、土をかぶって集まった。そして、すべての外国人との縁を絶ったイスラエルの子孫は立ち上がって、自分たちの罪と、先祖の咎を告白した。彼らはその所に立ったままで、昼の四分の一は、彼らの神、主の律法の書を朗読し、次の四分の一は、告白をして、彼らの神、主を礼拝した。…「立ち上がって、とこしえからとこしえまでいますあなたがたの神、主をほめたたえよ。すべての祝福と賛美を越えるあなたの栄光の御名はほむべきかな。」『…彼らが自分たちのために、一つの鋳物の子牛を造り、『これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神だ』と言って、ひどい侮辱を加えたときでさえ、あなたは、大きなあわれみをかけ、彼らを荒野に見捨てられませんでした。昼間は雲の柱が彼らから離れないで、道中、彼らを導き、夜には火の柱が彼らの行くべき道を照らしました。あなたは、彼らに悟らせようと、あなたのいつくしみ深い霊を賜わり、彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには、彼らに水を与えられました。四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした。あなたは彼らに王国や国々の民を与え、それらを領地として割り当てられました。こうして、彼らはシホンの地、すなわちヘシュボンの王の地と、バシャンの王オグの地を占領しました。あなたは彼らの子孫を空の星のようにふやし、彼らの先祖たちに、入って行って所有せよ、と言われた地に、彼らを導き入れられました。こうして、その子孫は、入って行って、その地を所有しました。あなたは、彼らの前でこの地の住民、カナン人を屈服させ、これを彼らの手に渡し、その王たちや、この地の人々も渡して、これを思いどおりに扱うようにされました。こうして、彼らは城壁のある町々と、肥えた土地を攻め取り、あらゆる良い物の満ちた家、掘り井戸、ぶどう畑、オリーブ畑、および果樹をたくさん手に入れました。それで、彼らは食べて、満腹し、肥え太って、あなたの大いなる恵みを楽しみました。』」

ネヘミヤ記9章1-25節

 

一昔前は人生50年なんて某N長が言ったり、最近は人生100年時代、とまで言われ始めている。そんな長い人生を歩んでいると、楽しい日もあれば辛い日もあるだろう。でも、もし神様が私たちの人生を導いてくださっているなら、一緒に歩むなら、それが何年だろうが、この世の1000日に勝る一日一日を神様があなたの内に積み上げてくださる。結局、どの道を行くか、神様と一緒か、離れる道か。あなたはどちらだろう?

 

さて、↑は紀元前445年ごろの話。神様から離れる道を選んだイスラエルはバビロンに捕囚されましたが、神様がペルシャのクロス王に働きかけ、バビロン捕囚から解放され、帰ってきました。しかし様々な現実的な問題が内外にあり、思い悩まされていた。しかし神様はその御手をまだ伸ばされていた。もう一度帰っておいで、と神様ご自身、恵みのもとに招くため、ネヘミヤやエズラを遣わし助け、支え、ついに神殿再建・生活再建を果たすのでした。そして喜びのお祭りを行いました。

 

その翌日、さあ、元の生活に戻ろう、と呼びかけるのではなく、何と灰をかぶって神様の御前に出た。断食して。どうして?自分たちが神様の恵みを受けるに値しないものだと知り、もう一度神様に立ち返った、原点に返ったのでした。昨日も書きましたが私たちが神様の前に立ち返る時、神様は喜んで受け入れ、聖める、新しい命で満たしてくださる。↑の祈りの根幹はここにある。ただ口で罪を告白するだけではなくて、神様の恵みを求める。神様の恵みをもう一度注いでほしい、と。

 

神様は私たちを神様のイメージに似せて造られたのですから、私たちはこの恵みに立ち返らなければ、本当の意味で命を得ることは決してできない悔い改め、というと嫌がられることが多いのですが、逆に神様のもとに帰れるのだからこれほどの恵みなことはないのです。

 

話は↑に進めて、エジプトの奴隷として400年、奴隷としてとらえられていた後、神様がの憐みによって救い出され、その道中全ての恵みをもって、共に同行して導かれていたのですが↑、ある時、モーセがシナイ山で神様から律法の板を授かり、神様がどれだけの計画を持ち、愛を持っているのか、彼らの内に愛を現すその計画を語っていた時、イスラエルの民の内から、モーセの帰りが遅く、40日も立ち、不安になった民は、自分たちの思う通りに思うタイミングで叶えない神など神ではない、と自分たちのために金の子牛の偶像を造り始めるのでした。「これがわたしを救い、運んでいく神である」と。

 

事もあろうに、それはエジプトで彼らを支配していた、その国で拝まれていた金の子牛の偶像だった。とんでもない話だった。ここで神様は、彼らを見捨て、モーセを通して新しい民を起こす、とその怒りを現したのですが、それでも、モーセのとりなしの祈りと、民の悔い改めによって神様の赦しをいただいた。

 

罪を悔い改めるなら真実で正しい神様は許し、洗い聖めてくださります。神様は義であるけど愛なのです。侮辱された。もうこんな民見捨てる!そういう決断だってできた、でも、神様は見捨てられなかった。悔い改めたと共に↑の告白にあるように、それでも、神様は雲の柱、火の柱を持って導かれ続けた。その先頭に立ち、彼らの行くべき道を照らし、導かれ、時に戦われ、守られた。

 

その中で、神様は「…彼らの口からあなたのマナを絶やさず、彼らが渇いたときには、彼らに水を与えられました。四十年の間、あなたは彼らを荒野で養われたので、彼らは何も不足することなく、彼らの着物もすり切れず、足もはれませんでした」と、彼らは告白します。

 

荒野の、今のような整備された道路ではない、40年履物が擦り切れないなんてありえない。多くの戦いもあったし。でも神様は、その足をゆだねる人に、その心をゆだねる人の行く道を守られるのです。彼らの旅路には多くの彼らの心を支配しようとする王国、くじく者たちがいた。しかし、あなたの心をこれらは支配することはできない。

 

私たちの人生は長い、様々な場面であなたの心を支配し、打ち砕こうとする何かが出現する。でも、あなたは神様のもの、神様はご自身のもとに招かれている。↑の祈りの前に、民がすべてをリセットするかの如く、神様に悔い改め立ち返る、自分の着飾っていたものをすべて脱ぎ捨て神様にゆだね明け渡すことを何よりも待っている、本来神様が与えたいと思っているイメージ・計画を現したいのです。

 

↑で「城壁のある町々と、肥えた土地を攻め取り、あらゆる良い物の満ちた家、掘り井戸、ぶどう畑、オリーブ畑、および果樹をたくさん手に入れました。それで、彼らは食べて、満腹し、肥え太って、あなたの大いなる恵みを楽し」ませてくださると神様に彼らは告白している神様はこれを成し遂げたい。でもこれをあなたが祈り願うかどうか。

 

神様は、御子イエス様の命を十字架に架けるほどに愛された。同じ人間にしてまで、生まれさせ、共に生き、その愛を現し、何と命まで差し出された。奇跡だけで十分?とんでもない。あなたの内に神様との和解、罪の赦しがなければこの喜びは与えられない、神様の命の果実は結ばれない。そのために御子イエス様は私たちを捨てず、十字架で、死にまで最後まで従われた。しかし3日目によみがえられたことによって、悔い改め立ち返るものすべてに和解の道、神様の家族へと招かれたのです。

 

あなたの人生を、あなたを神様に明け渡すところから、神様との、復活のイエス様との永遠の日々が始まる。神様が建て上げる、神様が私たちを超えさせてくださり実を結ばせる日々が。もちろん様々な戦いはこの人生あります。でも神様がこれを最後は打ち砕き、神様の御心が完全に現される。今日、私たちはこの命をいただこう。この十字架の架け橋を渡らせていただき、命をいただき歩もう。「空の星のようにふや」される神様の恵みに期待し。