―それでも大切にしなければいけない― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「私の神は、私の心を動かして、私がおもだった人々や、代表者たちや、民衆を集めて、彼らの系図を記載するようにされた。私は最初に上って来た人々の系図を発見し、その中に次のように書かれているのを見つけた。…次の人々は、テル・メラフ、テル・ハルシャ、ケルブ、アドン、イメルから引き揚げて来たが、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを、証明することができなかった。すなわち、デラヤ族、トビヤ族、ネコダ族、六百四十二名。祭司のうちでは、ホバヤ族、コツ族、バルジライ族。―このバルジライは、ギルアデ人バルジライの娘のひとりを妻にめとったので、その名をもって呼ばれていた―これらの人々は、自分たちの系図書きを捜してみたが、見つからなかったので、彼らは祭司職を果たす資格がない者とされた。それで、総督は、ウリムとトンミムを使える祭司が起こるまでは最も聖なるものを食べてはならない、と命じた。全集団の合計は四万二千三百六十名であった。このほかに、彼らの男女の奴隷が七千三百三十七名いた。また彼らには男女の歌うたいが二百四十五名いた。彼らの馬は七百三十六頭。彼らの騾馬は二百四十五頭。らくだは四百三十五頭。ろばは六千七百二十頭であった。一族のかしらの何人かは、工事のためにささげ物をした。総督は資金のために金一千ダリク、鉢五十、祭司の長服五百三十着をささげ、また、一族のかしらのある者は、工事の資金のために金二万ダリク、銀二千二百ミナをささげた。そのほかの民のささげたものは、金二万ダリク、銀二千ミナ、祭司の長服六十七着であった。こうして、祭司、レビ人、門衛、歌うたい、民のある者たち、宮に仕えるしもべたち、および、すべてのイスラエル人は、自分たちのもとの町々に住みついた。」

ネヘミヤ記7章5,61-72節

 

私たちは神様に愛されている、神様に愛された、その愛を、恵みを一つ一つ大切にしよう。私たちは神様から十分に良いものを与えられている。あなたの引き出しには数えきれないほどの、いや神様ご自身がおられる。恐れず、あなたにあたえられたいのちを力の限り生きよう。

 

さて、↑は紀元前445年ごろのイスラエルでの出来事。バビロン捕囚から解放されたイスラエルの民は、故国に帰ってきました。ところが、生活を建て直そう、また神様との恵みが覆われ、生かされたい、と神殿再建を始めようとしていました。しかし、現実目の前には、捕囚中に住み着いていた住民たち、そして彼らによる生活再建の妨害、現実生活を考えて、その工事の手は止まり、どうにもならなくなっていました。

 

しかし神様が、その憐れみによってペルシャのクロス王の内に働き、彼自身も異国の王でありながら、神様の力によって覇権を取らせていただいた、と国内外に宣言するほどに助けてくださっていた。神様はイスラエルが気付かない背後で、私たちが気付かない背後でいつでもその恵みを注がれているのです。そして、その助け手として、エズラや↑に登場するネヘミヤを送られました。

 

エズラについては次の章で登場する(ネヘミヤ到着時にはすでにいた)のですが、ネヘミヤは総督となってこの地を監督、治めていくこととなります。もうちょっというと、制度や組織といった行政機構をたてあげ、必要なところに必要な人を把握し、任命、置いていったわけです。そうして52日で工事は完成しました。

 

神様が任命し、神様が遣わした、いや神様が与えた命、このうちには神様はいつでもそのよきものを与えよう、注がれようとされている。何もない、どうにもならないような状況(帰還した当時のイスラエルのような)にあっても、神様は実は私たちの知らないだけで、目に見えないだけで働かれているのです(エズラは実際、目に見えない命に係わる大切なフォローをしていた)。これを、私たちが、彼らがどう見ているか、これはとても大事なのです。

 

↑で、昨日も書きましたが神様は、「私の神は、私の心を動かして、私がおもだった人々や、代表者たちや、民衆を集めて、彼らの系図を記載するようにされた」のでした。昨日は、自分の家系図をちゃんと大事にしていた人たちだった。今日の↑の前半は、ペルシャから引き揚げて来たが、自分たちの先祖の家系と血統がイスラエル人であったかどうかを、証明することができなかった人たち。

 

家系図を大切にする民族としては致命的だった。それは自分たちが神様の民であるという誇りだからです。なぜ家系図をなくしたのか?神様なら家系図がない人がいることもわかっていて、わざとさらすように、これも記録するように言ったのか?神様ならきっとわかっていた。その上で、神様との関係の内に招こうと、悔い改め方向転換、立ち返る、その事を願っていたのではないか、と私は思う。もちろん、職務の決まりで資格がないからできなかったものもあるけど、ここにいのちがないのではない、目に見えないように見えて神様は備えて下さっているんだ、この神様に頼るように、招かれた、そのために家系図を探す作業、記録を残すようにしたのではないだろうか。

 

なぜ家系図が見当たらなかったのか、探したけど見つからなかったのか?神様が隠したわけではないですよ?捜した、ということは多少なり心当たりはあった。でも、迫害のために隠していたか、現実生活を見て、こんなイスラエルの民の証など持っていても意味がない、と考えたのか。しかし、私たちは神様の家族、神様に造られたものであるということを隠し立て、恥ずべきことではない。

 

それに、捕囚や解放され現実生活に帰ってから何もかも失っていたのか?そこには、「全集団の合計は四万二千三百六十名であった。このほかに、彼らの男女の奴隷が七千三百三十七名いた。また彼らには男女の歌うたいが二百四十五名いた。彼らの馬は七百三十六頭。彼らの騾馬は二百四十五頭。らくだは四百三十五頭。ろばは六千七百二十頭であった。…総督は資金のために金一千ダリク、鉢五十、祭司の長服五百三十着をささげ、また、一族のかしらのある者は…金二万ダリク、銀二千二百ミナをささげた。そのほかの民のささげたものは、金二万ダリク、銀二千ミナ、祭司の長服六十七着であった」と、確かに神様がこれだけの多くの恵みを与えていたことがはっきりしているではありませんか。

 

これらは物理的なものかもしれない。しかし霊的にも神様は全てを、私たちが知らない背後で働かれ、全てのよきものを備えて下さっている。隠すどころか、誇りに思うべきではないか。いや、隠している暇などない。あなたの内に聖霊様が働かれるとき、物質的なことを超えて神様は大いなることを成される。絶対に無理、と言われた状況を動かし、たった52日で工事を完成させた。

 

この系図、神様の命に招かれている恵みを私たちは隠してはいけない。役に立たないと思って軽視してはならない。神様のなさることは、「人の」目に見えて役に立たないと感じられようとも、素晴らしい恵みを、御心を広げ、現されるのです。昨日の個所で、この地区が広かった、と書いてありましたが、神様が1日1日工事され、広げてくださる、地境を広げてくださるのです。

 

この素晴らしい恵みに、神様は招こうと、失われた資格、罪によって、神様をないがしろにした私たちを招くために、御子イエス様を遣わし、その愛を現され、地境を広げていかれた。しかし、一部ではない、御子イエス様が十字架に身代わりにかかられ、死なれたことによって、私たちの罪を帳消しにされた。3日目によみがえられたことによって、それだけではなく神様と和解させていただき、なお、聖霊様が私たちの内に与えられ、目に見えない素晴らしいその御心が、大いなる愛が広がっていく、御国が建て上げられていくのです。

 

最後に、彼らは「自分たちのもとの町々に住みついた」とありますが、私たちは救われて終わり、愛をもらって終わりではなく、この命に縋り付き、ないがしろにするのではなく歩もう。あるべき場所に、神様の御そばに住まわせていただき、神様のくださる1つ1つの恵みに生かされ歩もう。