―どのみちに進もうか― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「…新月祭になって、王は食事の席に着いた。王は、いつものように壁寄りの席の自分の席に着いた。その日、サウルは何も言わなかった。…しかし、その翌日、新月祭の第二日にも、ダビデの席があいていたので、サウルは息子のヨナタンに尋ねた。『どうしてエッサイの子は、きのうも、きょうも食事に来ないのか。』ヨナタンはサウルに答えた。『ベツレヘムへ行かせてくれと、ダビデが私にしきりに頼みました。【どうか、私を行かせてください。私たちの氏族はあの町で、いけにえをささげるのですが、私の兄弟が私に来るように命じています。今、お願いします。どうか私を行かせて、兄弟たちに会わせてください】と言ったのです。それでダビデは王の食卓に連ならないのです。』サウルはヨナタンに怒りを燃やして言った。『…エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ。今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺さなければならない。』ヨナタンは父サウルに答えて言った。『なぜ、あの人は殺されなければならないのですか。あの人が何をしたというのですか。』すると、サウルは槍をヨナタンに投げつけて打ち殺そうとした。それでヨナタンは、父がダビデを殺そうと決心しているのを知った。ヨナタンは怒りに燃えて食卓から立ち上がり、新月祭の二日目には食事をとらなかった。父がダビデを侮辱したので、ダビデのために心を痛めたからである。朝になると、ヨナタンは小さい子どもを連れて、ダビデと打ち合わせた時刻に野原に出て行った。そして子どもに言った。『私が射る矢を見つけておいで。』子どもが走って行くと、ヨナタンは、その子の向こうに矢を放った。子どもがヨナタンの放った矢の所まで行くと、ヨナタンは子どものうしろから叫んで言った。『矢は、おまえより、もっと向こうではないのか。』ヨナタンは子どものうしろから、また叫んだ。『早く。急げ。止まってはいけない。』その子どもは矢を拾って、主人ヨナタンのところに来た。子どもは何も知らず、ヨナタンとダビデだけに、その意味がわかっていた。…ダビデは南側のほうから出て来て、地にひれ伏し、三度礼をした。ふたりは口づけして、抱き合って泣き、ダビデはいっそう激しく泣いた。ヨナタンはダビデに言った。『では、安心して行きなさい。私たちふたりは、【主が、私とあなた、また、私の子孫とあなたの子孫との間の永遠の証人です】と言って、主の御名によって誓ったのです。』…」
Ⅰサムエル記20章24-42節


私たちの目の前には何時でもいろんな道がある。でも、いのちに導かれる、つながる道は1つ、イエス様だけ。時にそれは狭い門に見えるかもしれない。どこに通じるかわからず不安になる時があるかもしれない。しかし、もし、神様が開かれた道・門であるなら、ここを進もう。そこにはイエス様が待っている。

さて、↑は古代イスラエル王国、初代サウル王が国を治めていたころの話。しかし彼は最初は勇猛果敢、神様に従っていましたが、だんだん神様などいらない、と離れていった。しかしそんな彼にはダビデという素晴らしい助け手がいた。彼は謙遜だった。しかしそんな彼をやっかみ、しかもダビデの方が成功している、そこでダビデのいのちをサウル王は付け狙うのです。

ダビデは、神様に2代目の王としてすでに選ばれていました。サウルがあまりにひどいので。そんな中で王宮で仕えることはある意味では危険。でも、神様が彼を導いている、神様が次の王に選ばれているんだから、神様の導かれた先がたとえ困難に見えてもいこう、と決めたのではないか、と思う。

しかし、それでも忠実に使えていたダビデとしても王に命を付け狙われ、殺そうとしているなんて信じられない、そこで、ダビデに与えられていた友ヨナタンに助けを求めます。ヨナタン自身は実はダビデと非常に親しく、次の王はダビデがなるべき、と考えていたほどです。

ヨナタンは祭りで親族が集まる中、探りを入れることにしました。結果を知らせる手は↑で書いてある通りなのですが、それはすでにダビデと決めていました。最初はサウルは、まあ予定があったのだろう、と考えましたが2日目はそうもいかず、なんと、宥めようとする「息子」であるヨナタンをやりで刺そうとしたのです。

彼はもはや理性を失っていた。神様の恵みによって、本来滅びるはずだった部族が救われ、王を輩出する一族に選ばれたにもかかわらず神様を捨てたらいったいどうやって命を、幸せを得られるだろう。神様はいつでも、ベストを備えて下さっている。私たちの目から見てベストと見えていないだけで、神様はこの天地万物が造られて以来、ずっとベストを、離れていく我が子が立ち返るようにと救いの御手を伸ばしていたしかし、サウルはこれを取り払った。サウルだけではなく多くの人がそうではないか。私は私、救に生きるって。

ヨナタンとしてもチャレンジだった。サウルから「エッサイの子がこの地上に生きているかぎり、おまえも、おまえの王位も危うくなるのだ。今、人をやって、あれを私のところに連れて来い。あれは殺さなければならない」と言われた時、彼はその通り、と考えることもできた。ダビデがいなければ自分が王になれる、すきに出来るし、改革だってできる、と。

でも彼は、神様のいない道は意味がない、と考え、神様がダビデを王とするなら、その彼の内に働かれる「神様の養い・御心」に期待したのです。成し遂げるのは、ダビデではない。ダビデを通して「神様が」御心を現し、建てあげていかれる、この神様に信頼しよう、そう決断し、王のもとに立ったのです。そして命懸けで進言したのです。ダビデのもとに行けば、自分の身に危険が及ぶ可能性がある、それでも覚悟して、ダビデのもとに行き、作戦を実行した。

子どもとのに出かけ、弓矢を放つという。そしてその矢を子供に捜しに行かせ、王が本気で殺そうとしていることを伝える。でも、ダビデは逃げるのではなく、ヨナタンのもとに来た神様が導いてくださっていることを信じて。ヨナタンが騙す、なんてことは考えなかった。神様が、私たちを導くならそこにこそいのちがあるのです。ヨナタンを神様が友として与え、彼を通して助け導いてくださっていた。

今自分の目で見たら都合が悪いから、とは考えなかった。一度結ばれた関係の中で、ヨナタンが図らずも、「矢は、おまえより、もっと向こうではないのか。…早く。急げ。止まってはいけない。」と子供に言ったように、神様の御心は、私たちの心、重いよりもはるかに遠く、大きい。私たちはこの神様との関係を止めてはいけない。

時には迷う時もある。神様に従って何になる?どうしてこんな状況なの?と思いたいことは山ほどこの世の中あるでしょう。狭き門に見えてこんなところ進んで何があるんだっと。でも、イエス様も滅びに至る広い門より、それがたとえ小さくて、人も見向きもしないような狭い門でも、その門を通って命を得ることを勧めました。私たちが気にするのは矢の向かう方向ではない、人の心の向いている方向ではない、神様の進まれる、導かれる道、その指し示す道しるべに従うべきなのではないでしょうか。

神様は、私たちの道となるべく、御子イエス様を遣わされ、その愛を現された。でもそれだけではない、一時的な関係として来られたのではなく、全く同じ人となってこられ、同じ重荷を背負い、何と、私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死なれた。いやそれだけじゃない、3日目によみがえられた事によって、信じるすべての人、悔改めるすべての人を復活の恵みに導き、神様と和解させ、新しい命の道へと、親子関係へと導かれた、その道は開かれたのです。


私たちはこのイエス様のいのちによって開かれた門を進もう。矢は、聖霊様をもってあなたの行くべき道を導かれ、イエス様のいのちがあなたを保証し、その道に神様はその御心によって新しい命あるあなたを建てあげられる。恐れずまっすぐ進もう。その道をイエス様が開かれ、その御心を現してくださるから、一歩一歩。神様が一緒だから、平安を神様が与えてくださる、これを忘れず。