「サウルがペリシテ人討伐から帰って来たとき、ダビデが今、エン・ゲディの荒野にいるということが知らされた。…彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用をたすためにその中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。ダビデの部下はダビデに言った。『今こそ、主があなたに、【見よ。わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ】と言われた、その時です。』そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。こうして後、ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。彼は部下に言った。『私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ。彼は主に油そそがれた方だから。』ダビデはこう言って部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許さなかった。サウルは、ほら穴から出て道を歩いて行った。その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、『王よ』と言った。サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。そしてダビデはサウルに言った。『あなたはなぜ、【ダビデがあなたに害を加えようとしている】と言う人のうわさを信じられるのですか。実はきょう、いましがた、主があのほら穴で私の手にあなたをお渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったのですが、私は、あなたを思って、【私の主君に手を下すまい。あの方は主に油そそがれた方だから】と申しました。わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧ください。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。それによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めてください。私はあなたに罪を犯さなかったのに、あなたは私のいのちを取ろうとつけねらっておられます。…私はあなたを手にかけることはしません。昔のことわざに、【悪は悪者から出る】と言っているので、私はあなたを手にかけることはしません。…どうか主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいますように。』…」
Ⅰサムエル記24章1-22節
やったらやり返す、これが世の中で見られる方法。何とかしてこれを切り抜ける方法はないか、と自分で模索する。気持ちはわかるし私も今何となくその気持ちがわかる。でも、神様が私たちを放っておかない、神様が必ずその御心を展開させて下さる、だから私たちは神様の時をまとう。
さて、↑は古代イスラエル王国初代王サウルと2代目の王となる前のダビデの物語。サウルはダビデの能力を買い、彼を王宮に召し入れ、ダビデは活躍します。王が悪霊につかれれば音楽で癒すこともあった。しかし、ダビデの成功に妬み、またのちに彼が王になろうとしている、そこで自分の地位を守るべく、自分の王位にしがみつき、神様から離れているにもかかわらず、ダビデの祝福を恨み、追いかけるのでした、殺そうと。
別にダビデはサウルに何かをしようとしているわけではない、というのは↑を見てみればわかるでしょう。しかしサウルが勝手に恨んで、追いかけまわし、命を付け狙う。ダビデからしたらいい迷惑なのですが、そんなサウルのもとにダビデの居場所をつかんだ、という情報が入ってきて、ダビデのもとに、兵を向けます。自分でも、ですが。
ところが、このサウル、敵陣の中で用を足そうと隙を見せます。それをダビデの仲間は今がチャンスです、彼を討ちましょう、と提案します。サウルによって苦しめられている人たちもダビデについてきてますから、今こそ自分の恨みを果たすとき、と考えている人もいたかもしれません。
しかし、そんな中でダビデはどうしたか。次に自分が王になることも知っている。散々命を付け狙われていたんだ、今こそ復讐のチャンスじゃないか、とサウルを討つ大チャンスが巡ってきた、さあ、討伐しよう、と打って出ることもできる。しかし彼はそれをしなかった。サウルの裾を切り取って終えたのです。そして、「私が、主に逆らって、主に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、主の前に絶対にできないことだ」というのです。
信じられない。今こそピンチ、死を切り抜けるチャンスなのに。ダビデは、神様の御心によってなった王なのだから、全ては神様にゆだねよう、と決断したのです。ちなみに律法にはこんなものがあります。
「心の中であなたの身内の者を憎んではならない。あなたの隣人をねんごろに戒めなければならない。そうすれば、彼のために罪を負うことはない。復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である」と。
この個所、とても耳が痛い。↑も、直前に引用した箇所も。復讐する機会、自分の手で打って出れるときがあるなら、そう思いたいじゃないですか。でも、人は人を憎むのは簡単。でもそれを止める、戒める、悔い改めに導くことがなければ、人の手で人の成すことが進んでしまう。
でも、今引用した箇所にあるように、復讐をしてはいけない、死、その罪を追ってはいけない、神様が主だから、神様がなしてくださる。復讐は主のもの、私たちに神様が求めていることは、裁いて打倒すことよりも愛する事。ああ、耳が痛い。
でも、ダビデが言うように、「悪は悪者から出る」、神様から離れて罪を行う、神様が悲しまれること、復讐するところには残念な結果しか出ない。何もしない、というわけではないですよ?復讐は怒りから、戒めは愛から起こります。私たち自身が神様の御心がなること、神様の御心を祈り求める、その中に、神様の何かを起こしてくださるのです。私たちが自分の方法で、何かする以上に、神様がすべてのことをあい働かせて益としてくださる、御心を成し遂げてくださるのです。
罪は、犯罪だけを指すんじゃない、神様がしないで、ということをすることもそう、神様を悲しませることもそう。何よりも神様から離れる事。神様を神様とせず、自分が神となってしまうこと。私たち自身が神様の時、御心に寄り添うというか寄りかかり、ゆだねる時、「主が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救ってくださいます」。
私たちの心にこの復讐、うらみ、愛ではない方向にサタンは持っていこうとする。ここでサウルを討っていたらたぶん、イスラエルの民はダビデを次の王に認めなかったかもしれない。それこそがサタンの狙いだった。あなたを追いかけてくるさまざまなものはある、でも、私たち自身、うらみの心を切り取って、神様にゆだねる必要があるのではないでしょうか。
神様は、御子イエス様をお遣わしになった。王の衣、神様の最も大切な御子イエス様を神という身分から切り離し、人として生まれさせてくださった。私たちがサウルのように、王位から離されていくように神様の家族から切り離されてしまった、そのあなたを取り戻すため、裁くためではなく愛するために来られ、その御心を行われた。最後には十字架に私たちの罪を身代りに背負われ、身代わりに罰せられたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、悔い改め神様のもとに帰るすべての人に神様の家族、子としての衣を着せてくださるのです。
この時、私たちの内に復活のイエス様が住まわれ、あなたの内に神様の御心が成し遂げられていく。私たちが打ち崩すんじゃない、罪に、世の思い煩いによって砕かれた魂をイエス様がたてなおされ、新しいあなたを作り変えられる、生まれ変わらせて下さるのです。その命懸けの神さまの愛に私たちは大いに期待しよう。神様の底までなされた御心、ご計画にゆだね、祈り求めていこうではありませんか。