―誰が何と言おうと『あるというもの』がおられる― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主は仰せられた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。』モーセは神に申し上げた。『私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。』神は仰せられた。『わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。』モーセは神に申し上げた。『今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに【あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました】と言えば、彼らは、【その名は何ですか】と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。』神はモーセに仰せられた。『わたしは、【わたしはある】という者である。』また仰せられた。『あなたはイスラエル人にこう告げなければならない。【わたしはあるという方が、私をあなたがたのところに遣わされた】と。』神はさらにモーセに仰せられた。『イスラエル人に言え。あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、私をあなたがたのところに遣わされた、と言え。これが永遠にわたしの名、これが代々にわたってわたしの呼び名である。行って、イスラエルの長老たちを集めて、彼らに言え。あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が、私に現われて仰せられた。【わたしはあなたがたのこと、またエジプトであなたがたがどういうしうちを受けているかを確かに心に留めた。それで、わたしはあなたがたをエジプトでの悩みから救い出し、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の地、乳と蜜の流れる地へ上らせると言ったのである。】…」

出エジプト記3章7-17節

 

私たちの歩みの中には理屈ではどうにもならないことがある。でも、神様は不変、昔も今も、これからも決して変わらない。誰が何と言おうと、この神様が共に行く、というなら私たちもついていこう。神様が一緒なんだから。

 

さて、↑は紀元前。イスラエルがエジプトの奴隷として約400年にわたって捕らえられていた時代の話。なぜ彼らがエジプトに来ていたかというと、その約400年前、世界的飢饉から救うべく遣わされていたイスラエル人のヨセフが総理大臣となり、この危機を超え、家族を呼び寄せ、しばらく住んでいました。

 

しかし、このことを知らない王朝が出てきて、神様が祝福するイスラエルの民を恐れた王は彼らを奴隷とするのでした。ひどいときはレンガの材料から自分で用意し、いつも通りの量を作らせる、男が生まれたら殺せ、とか、それでもだめならナイル川に流せ、そんな無茶苦茶な中にいた。でも、神様は彼らを守っていた。だから彼らはイスラエルを恐れ、苦しめ続けていた。

 

神様は何も聞いていないのか?私たちが苦しいとき。しかしそんな中にあっても彼らを増し加え、祝福されていた。そしてついに彼らを導き出す、神様のスポークスマン的な役割を担うモーセが誕生。彼は神様の助けでエジプトの王宮で育つことになったのですが、エジプトの王子であることよりも神様の民であることを選び、エジプトから逃げ出し40年。ついに↑で神様と出会います。

 

神様はこうおっしゃられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。わたしが下って来た」と。先ほどの質問、私たちが苦しい時神様は何も聞いていないのか?いえ神様は私たちの悩みを見、聴き、知り、行動に起こされる神様。だから降ってこられた。そして今モーセと話している。

 

見て、聴いて、知っている、それだけじゃない。そこいらにある偶像などのようにではなく、真の神様は生きておられ、行動される。ただ精神的に何となく楽になる、とかそういうレベルではなく、「下って」という行動を起こされるのです。そして乳と蜜の流れる地・この世的には肥沃な大地に導く、と、救い出す、と。

 

この後4章まで神様との会話が続くのですが、ただエジプトが、強い、私はしゃべるのが苦手というか口が重い、とか様々言い訳を続けます。果たして仮にイスラエルに帰っても、彼らは信じるだろうか?と神様にモーセは訴えます。それはそうです。彼らは今、目の前の問題を知っている。ずっと奴隷となって一体いつ解放されるのか、希望が見えない。

 

でも一つ忘れてはいけないのは、私たちは、クリスチャンも、そうではない人も、信仰、努力、自分の力で乗り越える、そう考えがちです。でもそうではないのです。だったら神様はわざわざ降ってくる必要はない。神様が↑から時々助ければいい、でも神様は、一緒に進まれ、一緒に戦われる。神様が一緒にいるから私たちは試練や戦いを乗り越える。

 

私たちは神様にあって生かされる。神様が私たちの内に御心を、命を現し、その愛にあって日々生かされる、導かれるのです。この神様なしに本当の意味であるべきあなたにはなれないし、そこは変わらない。神様が一緒で、神様の存在を「知識的に」知っている、を超えて、「すべてを成し遂げてくださる、御心を成してくださる」と信じる、それを知っている、とでは大きな差がある。

 

神様は必ず救い出す、そして神様の御心を現す、その神様の養い、新しい命へと救い出す、と約束された。この先では、エジプトをどのように打つのかも語られるけど。でも、私たちは「誰が何と言おうと『あるというもの』がおられる」という確信に立たなければいけない。いや、確信というよりもおられる、だからこそ私たちは私には神様がいるんだ!世が何するものぞ!と勇気をもって立ち上がる。神様の御心を求める時、私たちは神様にある勝利、神様の御心を「体験的に」知るのです。

 

「あるというもの」=主というのは、「昔いまし、今いまし、これからもい続ける方」、という意味です。この方が遠くからではなく、降ってこられ、一緒に進まれる。神など信じても現実的に何にもならない、という不安な思いに、あなたを悩ませる問題に、神など何もできないじゃないか、というサタンの誘惑に対し、「私には主がいます」と告白しよう。私をいかすのはだれか?あるというもの、主です、神様です、と。誰しもが恐れる、でも私たちはそれでもこの神様の御心を求めようではありませんか。

 

「あるというもの」=主は、あなたをサタンの手、この世の思い煩い一切から救い出すべく、のちに本当に降ってこられた。同じ人間になって、同じ場所、時代を生き、同じ重荷を背負われた。人間になられたのですから。しかしその中にあっても神様の御心を現し、裏切られてもその愛を全うし、最後には十字架にかかられ死なれた。

 

でもそこで終わらなかった。昔で終わらなかった。3日目によみがえられ、信じるすべての人に復活のイエス様が住まわれ導かれ、御心があらわされる今を与え、明日という未来、死して後の永遠の命までもあなたと共におられ、導かれるのです。

 

あなたのために命を懸けられた、愛を「実行される」方、「あるというもの」=主があなたと共におられるのです、昔も今も、これからも。古い罪人の昔を神の子としての今に、そしてキリストの花嫁としての未来へと導かれる。その手の内に私たちは導かれる。今日、私たちは、「誰が何と言おうと『あるというもの』がおられる」という確信をもって告白し、信頼し歩もう。その一歩一歩を神様が導かれる。