―究極の陶芸家― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「主からエレミヤにあったみことばは、こうである。『立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。』私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。それから、私に次のような主のことばがあった。『イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。―主の御告げ―見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。わたしが、一つの国、一つの王国について、建て直し、植えると語ったその時、もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す。」

エレミヤ書18章1-10節

 

神様は究極の陶器師で、私たちを練り上げる。神様の思うままに。でも、神様が好き勝手に悪い、適当なものに作り上げようとするわけではなく、最高の作品、あなたへと作り上げていかれる。だからこそ私たちはこの神様の御手にゆだねよう。

 

さて、↑はエレミヤという預言者、神様のことば、御心を「預かり」それを伝える、実行する役割をしている人を通して神様が語られた言葉です。おおよそ彼の活動していた期間は古代イスラエル分裂時代、南ユダがヨシヤ王の時~捕囚されていく間。イスラエルが好き勝手に生き、これまで支え、祝福していたはずの神様を捨ててしまった。そんな中で↑の様に語るのです。

 

神様はエレミヤに、とある陶器師の家に行くように言います。ということは、そこに見せたいものがあるから、ということです。横道に逸れますが、神様が何かをするように、どこどこに行くように、と語られるということは何か目的があります。礼拝の中で、ないし祈りの中で、ないし聖書を読んでいる中で導かれるなら、私たちは自分の疑いの言葉を取り除き、従う、その時私たちは思いもよらないことを見る、体験するのです。

 

それは時代がたっても変わりませんよ?聖霊に導かれ、どこどこに行くようにと示された使徒のひとりは、救いがどこにあるのか?困っている宦官のひとりが悔い改め、神様に立ち返り、救いを得た、というあり得ないことまで起こった。全く認識のない二人を神様が結び付け。その宦官は国に帰って伝道し、さらにそこに神様の愛は広がっていっただろう。イスラエルという小さな国から今世界の大半を占めるクリスチャンがなぜ多いのか、その辺にもありそうに感じますね。

 

話は戻してエレミヤはその陶器師の家で、陶器師がろくろをまわして、「粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」様子を目撃します。だから何?と思う?いいんです。じゃあ神様に聞けばいいんです。私たちにとって何か疑問があるなら、どうしたらいいのかわからないなら、神様に、み言葉に聞けばいい、神様は語ってくれる。神様は隠し事を、何か不都合なことなど持ってない。ありのままに語られるから。

 

それにしてもせっかく作った作品を壊すなんて、と思う。でも、陶芸というか、陶器を作る工程を考えてみるとわかりやすい。そもそも作品作りは陶器師は粘土を選ぶことから始まります。最近までやっていた朝ドラを思い出すとわかりやすいかもしれませんね。そして、その中から、粘土から小さなゴミや石ころを取り除いて、柔らかくなるまでよく練ります。

 

次に、ろくろに乗せて陶器師が、こんなものにしたい、という思いを形に現す、その思いのままの形に仕上げていきます。このろくろは陶器の作成にはなくてはならないもので、これを使うことによって、より丁寧に、よりバランスのとれた形に仕上がっていくわけです。

 

ちなみに、私もやったことがありますが、私は下手で全然ダメでした。時間も短かったり他の参加者をサポートしなければならなかったのでと言い訳もありますが。

 

この工程を見ると、神様の「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか」という言葉の意味が、いやその愛が伝わってくるのではないでしょうか。この言葉の中には、もともとの言葉では「力強い手によって」とあるのですが、神様の思いは、ここにある。

 

気に食わないから壊すんじゃない。よりよいあなたにしたい。土を選ぶところだって適当に選ぶわけではありません。良い土を神様は選びに選んであなたを作り上げる。その中にあなたを傷つけるものはないか、あなたを苦しめるごみや石ころはないか、と丹念に探し、取り除いていく。そしてろくろに、神様ご自身の力強い手によってセットし、丹念に時間をかけてその「神様の思い」を形に現していく。

 

ただ、その作品が何か問題によって、うまくいかなければ、これを新しく整えなおすのです。一度壊して、とかして、もう一度練り直して、その中にまた神様の魂、愛をこめていく。

 

陶器師の行為、陶器を私たち、と理解することはできるでしょうが、そう考えると、もしかしたら、なんで壊すんだ?神様はなぜ私をこんな目に合わせるんだ?と思いたくなる人もいるかもしれません。私もこの個所をなかなかこの辺が腑に落ちなくてこの個所を分かち合いたくてもなかなかできなかったのですが。でも、他の聖書の個所にもあるのですが、陶器師が何を造るのか、そしてこれを壊したりするのは、陶器師の自由、その心のままです。粘土や器が、陶器師に向かって、文句を言うことはできないのです。

 

じゃあ神様は操り人形や適当なものを作りたいの?それだったら最初の土選びから適当にします。時間もかけず、その思いを込めて形作りません。その神様の愛をあなたの内に現したいから、とその思いを込めて形作っていくのです。神様の御心を、愛を、ご計画をあなたの内に現したいのです。私たちの内に苦しみ、悲しみ、痛み、何より罪があるなら、これを取り除いて、もう一度新しく本来あるべきあなたの姿に造り替える、新しくされたいのです。

 

いやそれ上に、私たち自身も神様に対して、文句を言っていないだろうか?なんでこんな目に合わせるんだ?って。私の望む道はこれじゃない、と自ら神様の形作ろうとしている最高のあなた、本来あるべき姿を壊そうとしていないだろうか?でも、神様はその状態を良く知っている。自分でろくろを回しながら、あなたをよく見て、あるべき姿に造り替えたいのです。

 

そこで、本来壊れるべき私たちの代わりに御子イエス様を壊された。十字架に、身代わりに罰されたのです。私たちが罪ゆえに好き勝手に生き、神様から離れ、壊れていく。その中でその罪を取り除き、神様のもとに立ち返ることができるよう。生きることができるよう。そして十字架で身代わりに死なれた。

 

しかし3日目によみがえられたことによって、私たちはこの復活のイエス様の土台の上で新しい命を練り上げられていく、日々日々その形を整えていってくださるのです。復活のイエス様のいのちが共にあって、そのイエス様のいのちを土台に私たちは生かされていく。そのうちに聖霊様が注がれ、私たちは生きた器、あなたとなっていくのです。あなたの痛みや罪といった混ぜ物も取り除かれるのです。

 

神様は「…もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。…もし、それがわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す」とおっしゃられた。神様は私たちを幸せにしようと、その御心によって日々整え、形作られていく。私たち自身、疑い、罪という小石を神様に取り除いていただきながら、神様の御心に整え、現してください、と日々祈り求めようではありませんか。文句ではなく、神様の御心を願い求め続けよう。