―人類初の殺人事件の後― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。さて、レメクはその妻たちに言った。『アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。』アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。『カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。』セツにもまた男の子が生まれた。彼は、その子をエノシュと名づけた。そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」

創世記4章17-26節

 

神様は、悔い改めるものを誰でも招き入れられる。神様は、というよりも私たちが神様から離れ歩むことを何よりも悲しまれる。神様がどれだけ私たちを愛してくださっているのか、このことを忘れず、これを胸に、額に、あなた自身の内に刻み、歩もうではありませんか。神様の与えてくださっている一つ一つを感謝し、味わい尽くし。

 

さて、↑は人類初の殺人事件が起きた直後の出来事です。大まかな流れを申し上げますと、アダムとエヴァ、初めての人間・夫妻、彼らはエデンの園という完ぺきな環境、神様の養いの中歩んでいましたが、サタンの誘惑もあったとはいえ、神様の主権を求め、神様から離れ、ついにはエデンの園から追放されてしまった。

 

実は神様は彼らが罪を犯したとき、悔い改めの機会を与えていた。神様は全てのよきものをそもそも与えていたので、彼らが神のようになる必要がない。自分の能力で、自分で築き上げても、養ってくださる方がいなければ生きることは決してできません。しかし、彼らは互いに罪を擦り付け合い、最後まで神様に悔い改めることなく、追い出された。

 

神様に愛がないから追い出されたのではなく、彼らは自由意志のもとで、それを選んだのでした。そして、夫婦を神様はそれでも捨てず、エデンの外においてもそれでも養い続けていた。

 

しかしその息子たちの間で殺人事件が起こってしまった。いけにえを捧げた際、兄カインは、宗教的にいけにえを捧げた、神様自身を求めていないその心を見た神様は彼のいけにえを受け入れず、弟アベルの心を見た神様は彼のいけにえを受け入れた。その嫉妬心から、兄アベルは弟カインを殺したのです。

 

しかし神様はそれでも彼に悔い改めの機会を求め、声をかけるも、親たちのごとくやはり自分を認めない神が悪いかのように言い放つ。それでも、神様は、「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。それで、私に出会う者はだれでも、私を殺すでしょう」というカインを憐れまれ、「それだから、だれでもカインを殺す者は、七倍の復讐を受ける」と神様はおっしゃってくださった。

 

要するに、神様は守られる。だから、彼がやがて自らの罪を悔い改め、立ち返ることを神様は願っていたのではないか、と思う。いけにえを受け入れたアベルを殺したカインを神様は見捨てることは簡単だった。でも、彼に妻を与え(おそらくアダムとエヴァの間に生まれた娘?)、子も授けてくださった。

 

彼らの文化も発展していき、彼らの内から、天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖、音楽を奏でる者の先祖、鍛冶屋なども出てきます。自動的にそうなった?いえ、神様は彼らに御目を注がれていたのです。

 

しかし悲しいかな、↑でレメクは「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍」と言い放つのでした。聖書には具体的な内容が書かれていないのでわかりませんが、不倫だった、妻の不倫相手を殺し、その上でこの言葉が出た、という説がありますが。

 

ただ、彼らが神様に立ち返った姿は決してみられなかった。おそらくカインがアダムたちから離れていった、捨てられた、その思いが子孫子孫へと受け継がれていったのかもしれない。残念ながら、↑の一番最後に出てくるアダムとエヴァの息子セツ、そしてその子孫を除いて残念ながらノアの洪水時にはあまりに世界は悪に染まり、神様がどんなに探し回っても正しい人を見つけることができないほど堕落していったのでした。

 

神様は、書いてないからわかりませんが、もし彼らがアダムたちのところに帰っていったら、悔い改めたなら、その家族に受け入れていたのではないか、と思う。でも、どんなに、素晴らしいテント生活、家畜、音楽、鍛冶で成功を収めても、それは神様の助けなしには本当の意味では良い者にはなっていかず、最後はノアの洪水で流されつくされた。賜物はみなそれぞれです。でも、神様がそのあなたの手、目、足、などなどのうちに働かれて初めて、それらは建てあげられていく。あなた自身も。神様があなたの内に働かれて建てあげていってくださるのです。神様は、カイン一族が発展するに必要な事は備えて下さっていた。でもその備えて下さる神様に信頼しなければ何も意味がない。

 

天幕を、町を、神様を中心に建てあげたなら彼らはどれだけ命あるものとなっただろう。レメクのような悲劇が起こらなかったのではないか、と私は思う。人は確かに様々な戦いはあるかもしれない。私たちの人生は一人でなっていくのではない。でもだからこそ、私たちは↑のセツの一族のごとく、「神は私に…授けられた」、この神様に「祈ることを始める」必要があるのです。

 

祈りは、神様と私たちを繋ぎます。イエス様も祈る事を何度も教え、またイエス様自身いつも祈り行動していました。神様は、私たちの祈りを聞かれ、私たちに「授けてくださる」方なのです。本来エデンの園から追放されてしまったのに。神様のもとから追放されたはずなのに。しかし神様は、私たちをご自身のもとに帰ることができるよう、私たちの罪の代価を身代りに御子イエス様に背負わせ、十字架に架けて、死なせたのです。ありえない話。しかし、そのあり得ない愛をあなたのために現された。

 

カインへの神様のしるしは甘いですか?弟を殺したのに。でも、それでも私たちに神様は立ち返り、命を得てほしい、そのためなら、御子イエス様のいのちさえ惜しまなかったのです。そしてこの十字架の前に悔い改める時、私たちはイエス様の復活と共にこの恵みに与り、神様の子とされ受け入れられる、神様の養い形造られるのです。イエス様のいのちゆえに、その神様の愛、御心によって。

 

あなたにはこのイエス様のいのちが与えられている。このイエス様のいのちゆえに、私たちは神様と和解させていただき、今生かされる。このイエス様のいのちゆえにその御心によって、私たちは形造られ導かれる。今日あなたには何が与えられているのか、どれだけ愛されているのか、もう一度再確認しよう。そしてあなたの内に与えられたこの神様の永遠の愛、これを受け取り、この命の上に、神様の御心を建てあげてください、と日々祈り歩もうではありませんか。カイン一族のように羨む必要はない、あなたにはあなたへの神さまの愛が、御子イエス様のいのちっと主に与えられているのだから。