―本当の意味で思慮深い者とは― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「彼に代わって、ひとりの卑劣な者が起こる。彼には国の尊厳は与えられないが、彼は不意にやって来て、巧言を使って国を堅く握る。…彼は、同盟しては、これを欺き、ますます小国の間で勢力を得る。…彼は、そのかすめ奪った物、分捕り物、財宝を、彼らの間で分け合う。彼はたくらみを設けて、要塞を攻めるが、それは、時が来るまでのことである。彼は勢力と勇気を駆り立て、大軍勢を率いて南の王に立ち向かう。南の王もまた、非常に強い大軍勢を率い、奮い立ってこれと戦う。しかし、彼は抵抗することができなくなる。…このふたりの王は、心では悪事を計りながら、一つ食卓につき、まやかしを言うが、成功しない。その終わりは、まだ定めの時にかかっているからだ。…彼は多くの財宝を携えて自分の国に帰るが、彼の心は聖なる契約を敵視して、ほしいままにふるまい、自分の国に帰る。定めの時になって、彼は再び南へ攻めて行くが、この二度目は、初めのときのようではない。… この王は、思いのままにふるまい、すべての神よりも自分を高め、大いなるものとし、神の神に向かってあきれ果てるようなことを語り、憤りが終わるまで栄える。定められていることが、なされるからである。彼は、先祖の神々を心にかけず、女たちの慕うものも、どんな神々も心にかけない。すべてにまさって自分を大きいものとするからだ。その代わりに、彼はとりでの神をあがめ、金、銀、宝石、宝物で、彼の先祖たちの知らなかった神をあがめる。彼は外国の神の助けによって、城壁のあるとりでを取り、彼が認める者には、栄誉を増し加え、多くのものを治めさせ、代価として国土を分け与える。終わりの時に、南の王が彼と戦いを交える。北の王は戦車、騎兵、および大船団を率いて、彼を襲撃し、国々に侵入し、押し流して越えて行く。彼は麗しい国に攻め入り、多くの国々が倒れる。しかし、エドムとモアブ、またアモン人のおもだった人々は、彼の手から逃げる。彼は国々に手を伸ばし、エジプトの国ものがれることはない。彼は金銀の秘蔵物と、エジプトのすべての宝物を手に入れ、ルブ人とクシュ人が彼につき従う。しかし、東と北からの知らせが彼を脅かす。彼は、多くのものを絶滅しようとして、激しく怒って出て行く。彼は、海と聖なる麗しい山との間に、本営の天幕を張る。しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない。」

ダニエル書11章21-45節

 

私たちの世の中には様々な戦いがある。戦いには戦略が必要。誰があなたと共に戦ってくださっているのか、誰が導いてくださっているのかを忘れてはいけない。どんなに時代が変わっても、悪が、サタンが、問題が姿を変えようと、神様の前に立ち果せる事などできない。私たちは神様の愛、御心にしっかり立とう。

 

さて、↑は一日空きましたがダニエルにあった終わりの時の預言の続き。というよりも、時はペルシャのダリヨス王の時代。預言の前半では、やがてこの国が分かれていく、ギリシャのアレクサンダー大王が出てきて、セレウコス4世などによってイスラエルは多くの試練にあっていくその歴史を見せます。

 

これまで何度も書いてきましたが、神様がなぜあらかじめ歴史を知らせたのか。それは、だからこそ、私たちは誰に従うのか、これが問われる。確かに歴史はめまぐるしく動く。人生もそうだ。ここ数十年見てもそうでしょう。でも、どんなに歴史や問題が姿を変えても、神様は変わらない。神様のあなたへの愛は。

 

聖書に、神様は耐えられない試練を与えない、と言っていることはクリスチャンじゃない人でもたまにいうんだけど、ちょっと勘違いがある。神様が与えた試練なら、神様がそこを一緒に通り抜けさせてくださる。逃げ道を与えるんではなく、神様がその試練の中でも一緒に進んでくださる。耐えられないのではなく、私たちが神様とともに進むからこそ、そこに私たちは神様の御業を、栄光を見るのです。

 

と、話は預言の後半に移して、セレウコス4世の後に、ペルシャが分かれ、シリヤの王でアンティオコス・エピファネス4世が出てきます。それが↑の最初。で、この王が問題で、実はのちの時代、終わりの時には、この再来、もっとひどい偽キリストが出てきます。

 

↑の預言後半に進み、アンティオコス・エピファネス4世は、突然現れ、巧みな言葉で人々を掌握していった。そしてイスラエル包囲網を作っていった。彼のやり方は微妙にうまく、相手と平和条約を結び、後で自分の力を十分についた時点で、その条約を破るということを繰り返していきます。まあそうしてエジプトのプトレマイオス6世フなども打ち破っていくんですけど。

 

ただ、二度目のエジプト侵攻の時は、ローマ艦隊によって撤退を余儀なくされていきり立ち、彼はエルサレムの神殿を汚し、いけにえを禁止して、荒らす忌むべき偶像(ゼウス)を神殿に据えることが預言されていました。それでゼウスを信じ、自分たちに従い生きるか、死ぬか、それが問われることになっていく。

 

ただ、マガバイオスなどに神様を信じる人たちはついていき、ついには勝利を治めた。いや、治めることを神様は預言をあらかじめし、伝え、彼らを励ます。そのような邪悪、どんな苦難が姿を変え私たちを襲い、時代が変わって私たちの魂を支配し、神様から奪い去ろうとしようとも、↑の預言の一番最後に「しかし、ついに彼の終わりが来て、彼を助ける者はひとりもない」と書かれているように、ついにはこのサタンも、偽キリストも、打倒され、彼を助けるものはなくなり、滅ぶ。しかし、思慮深く神様を恐れ、信頼し従う人には「神様が」いつもそこにおられながら導かれるのです。

 

↑の後半、分かりやすくスペースを置きましたが、「この王」とは、のちに現れる偽キリストです。終わりの時の預言になる。まったくアンティオコス・エピファネス4世に似た行動をとり、再来とまで言われます。本当にある日突然現れる。

 

統一政府、統一宗教にして、自分がそのトップになり、ついにはエルサレム第3神殿(次にできる神殿)でキリスト宣言をするわけです。さらに厄介なことに、彼(反キリスト)が認める者には、栄誉を増し加え、多くのものを治めさせ、代価として国土を分け与えます。そこでふるい落としをかけ、アンティオコス・エピファネス4世のように、自分に従うか否かで、同時に迫害もしていく。

 

ただ、神様は戦われます。↑の最後の方にあるように、最後にアルマゲドン・最終戦争が起こる中で、勝利を治められるのです。再臨のキリスト様がもう一度やってきて勝利を治めてくださる、とあらかじめ約束された。

 

正直↑の預言は夢物語に感じるかもしれない。ただ、いつそのような時代が来ようと、いつ苦難困難の中にあろうと、神様は共におられる、戦われること、最後は勝利を治めることを忘れてはいけない。あなたの周りの獣、問題、戦い、これらを支えているものは最後はなくなっていく。あなたを囲むものは最後は取り除かれるのです。そこに神様の新天新地、御国が建てあげられ、その前味を私たちは味わうのです。

 

神様はあなたの味方となるため、罪人であった私たち、神様の前に敵対者であった私たちをさえあらかじめ救うため、救いの道を示すため、御子イエス様を身代りに十字架で罰し死なせた。しかし3日目によみがえられたことによって、このサタンの目論見は、神を引きずりおろすことなどは打ち砕かれたのです。あなたを最後は滅んでいく道に降らせないため、御子イエス様を身代りにされてまであなたを引き上げ、神様の子とされた。命を懸け戦われ、取り戻されたのがあなたです。

 

私たちは思慮深い者であろう、神様に従うものであろう。一時的に栄え、消えていくものに心を奪われ、魂まで奪われてはいけない。神様の栄冠を、勝利を勝ち取らせていただこうではありませんか。サタンを助けるものはやがていなくなっても、あなたのためにいのちをかけるイエス様は、世の終わりまであなたの内に住まわれ、歩まれる。この命にあって成し遂げようとされる神様の栄光ある御心を仰ぎ見る者であろう。