知る=体験的に知る⇒実行 | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

自分の生き方を見せるときにだけ、語ることばが力を持ちます。

記事的にはクリスチャンの話だけに見えるかもしれませんが、キリスト教に興味ない方にも少し考えるところがあると思うので読んでみてください。親がどんなに子どもにあれこれ言っても、自分がしなければ意味がない、という視点で。
 

子供たちに、「神様のみことばが重要だ」と何百回言っても仕方がありません。子供たちは父母が何を重んじているのか知っています。教会学校の聖書テストで一番になったと報告しても、親は別に顔色を変えません。しかし学校で成績が一番になったなら、もう大騒ぎでしょう。友達や親戚に話して回るのではありませんか?そうすると子供の心に、「お父さん、お母さんは、神様を信じて従うことが最高だと言うけれども、実際は学校の成績が一番になるのを喜ぶんだな!」と思うようになるのです。そして「礼拝とか教会のことは放っておいてもいいから、学校で一番になって両親を喜ばせなくちゃ」という考えが宿るのです。口の告白ではなく、実際の生き方が子供たちに植え付けられるのです。

 

みことばを知っているからといって何になるでしょう? みことばどおりに従って生きないなら何にもなりません。聖書を知っているからと言って義人意識を持つのは間違いであると、みことばは強く警告しています。ヤコブの手紙2章19節を見ると、「あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています」と言っています。悪魔でさえ、神様がお一人であることも、イエス様が神の御子であることも知っているのです。

 

では、まことの信仰者と悪魔の告白の違いは何でしょうか?信仰者は告白とともに従順をもって進み、悪魔は知ることで止まっているということです。私たちは知って、一歩踏み出す、その中に「神様の御心・御力・御業」が現れる。あなたは告白と共に従順を持って進むでしょうか?

 

ある牧師の説教より