―覚悟を決める、いのちの保証をされる方がいるから― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「すべての将校たち、カレアハの子ヨハナン、ホシャヤの子イザヌヤ、および身分の低い者も高い者もみな、寄って来て、預言者エレミヤに言った。…そこで、預言者エレミヤは彼らに言った。『承知しました。今、私は、あなたがたのことばのとおり、あなたがたの神、主に祈り、主があなたがたに答えられることはみな、あなたがたに告げましょう。何事も、あなたがたに隠しません。』彼らはエレミヤに言った。『主が私たちの間で真実な確かな証人でありますように。私たちは、すべてあなたの神、主が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行ないます。私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです。』十日の後、主のことばがエレミヤにあった。彼はカレアハの子ヨハナンと、彼とともにいるすべての将校と、身分の低い者や高い者をみな呼び寄せて、彼らに言った。『あなたがたが私を遣わして、あなたがたの願いを御前に述べさせたイスラエルの神、主は、こう仰せられる。【もし、あなたがたがこの国にとどまるなら、わたしはあなたがたを建てて、倒さず、あなたがたを植えて、引き抜かない。わたしはあなたがたに下したあのわざわいを思い直したからだ。あなたがたが恐れているバビロンの王を恐れるな。彼をこわがるな。―主の御告げ―わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、彼の手からあなたがたを救い出すからだ。わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼は、あなたがたをあわれみ、あなたがたをあなたがたの土地に帰らせる。】しかしあなたがたが、【私たちはこの国にとどまらない】と言って、あなたがたの神、主の御声を聞かず、【いや、エジプトの国に行こう。あそこでは戦いに会わず、角笛の音も聞かず、パンにも飢えることがないから、あそこに、私たちは住もう】と言っているのなら、今、ユダの残りの者よ、主のことばを聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。【もし、あなたがたがエジプトに行こうと堅く決心し、そこに行って寄留するなら、あなたがたの恐れている剣が、あのエジプトの国であなたがたに追いつき、あなたがたの心配しているききんが、あのエジプトであなたがたに追いすがり、あなたがたはあそこで死のう。エジプトに行ってそこに寄留しようと決心した者たちはみな、そこで剣とききんと疫病で死に、わたしが彼らに下すわざわいをのがれて生き残る者はいない。】…」

エレミヤ書42章1-22節

 

私たちは様々な場面に遭遇する。一喜一憂し、ある時は神様を求めるけどある時は求めない。しかし、神様があなたを愛さない日はあるだろうか?順境の日も逆境の日も、神様を求めよう。神様が与える一日を、その日々を神様に信頼し歩もう。

 

さて、↑はバビロン捕囚後、イスラエルに残された人たちと、預言者としてイスラエルに遣わされていたエレミヤの話。ソロモンの栄華は崩れ去り、王国のゆうしゅうな人たちはみなバビロンに連れていかれてしまった。悲しみばかりが支配していた。

 

人はどうにもならないと座り込むしかない。そんな時だってあってもしょうがない。でも、神様は驚くべきことに彼らを見捨てていなかった。バビロンに捕囚されたのだってイスラエルが散々神様に逆らい離れ、好き勝手に生きていたのだから、見放されて当然、そのはずが、なんと捕囚先はもちろん、今これからどうしたらいいか迷っている人たちにさえ気にかけてくださっているのです。

 

皆さん、これだけは忘れないでくださいね。座り込んでもいい、でも神様はあなたのことを見捨てているわけではない、神様はあなたを導こうとその目を向けておられる、心を砕かれ、注がれている、この神様に心を向けてください。その先は、神様と一緒に進みましょう、ゆっくり。

 

話は↑に進めて、エレミヤという神様から遣わされた預言者は民に寄り添うことにした。バビロンからは自由に好きにしていい、と言われていましたが、神様から遣わされたエレミヤは、民と寄り添い、生活再建に取り掛かろうとします。ただ、現実は厳しかった。捕囚され、すぐに回復することはなかった。もうこんなところには何もない、こんなところからは離れよう、どうしたらいい?とそこで民はエレミヤに祈ってほしい、と訴えます。彼らとしては↑を見るとすでにエジプトに行こうと考えていたようです。

 

↑の言葉を見るとすごく信仰熱心だったのかと思いきや、彼等は自分たちがエジプトに行くことを承認してもらいたかったのです。「私たちは、すべてあなたの神、主が私たちのためにあなたを送って告げられることばのとおりに、必ず行ないます。私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです」と。

 

でも神様は、エジプトに行ってもそこにはそこで苦しみはある。疫病や苦しみ、様々なものがあなたがたを襲うだろう、と神様は宣言された。ちなみにエジプトもイスラエルとの戦いの歴史がありますし、うらみだってあったでしょうから、そこならなんとかなる、というのは甘い考えだった。

 

問題なのは、神様がいないところには、見かけどんなによく見えても、何か結局問題はある。場所だけ、問題だけすり替えてもダメ、本質的には神様が行きなさい、という場所、神様が共にいる場所でなければ、意味がないのです。今この瞬間はつらいように思えても神様は彼らにこう言った。

 

「―主の御告げ―わたしはあなたがたとともにいて、彼の手からあなたがたを救い、彼の手からあなたがたを救い出すからだ。わたしがあなたがたにあわれみを施すので、彼は、あなたがたをあわれみ、あなたがたをあなたがたの土地に帰らせる」と。

 

神様がとどまりなさい、というならそこには神様の救いがあるのです。一見どうにもならないように見えても、必ず神様の手があり、その救いの日、回復まで一緒に導かれる、と。憐れみを、施される、と神様の憐み、この世のものと比較して私たちは勝手に価値を下げていませんか?神様を信じても何にもならない、と。でも神様は御子イエス様のいのちさえあなたのために与えることができる方ですよ?

 

話はそれますが、「預言」というものがあります。エレミヤも預言者。預言は神様の言葉を語る、これを信じ受け入れる時、神様の御心があなたの内になります。でも、「予言」ではなく、未来予知ではありません。未来について語られることもありますが、これを信じなければどちらにせよ意味ないし、未来についてだけ求めるのなら、占いと変わりません。

 

あなたは占いと同程度に神様の御心、愛を求めてませんか?奇跡を求めてませんか?しかし、↑の残された民が逆の意味で行っていますが、本心から、「私たちは良くても悪くても、あなたを遣わされた私たちの神、主の御声に聞き従います。私たちが私たちの神、主の御声に聞き従ってしあわせを得るためです」とあなたは告白できますか?

 

どんな状況にあろうと、あなたがいるその場所で、時には自分の心の声と違う状況かもしれない、でも自分にとって良くも悪くも、神様は全を成し遂げてくださる、とあなたは信じますか?神様はあなたのために御子イエス様を、その裁きを身代りに負わせ、十字架において死なせるほどに、あなたに憐れみを注ぐ決断をされた方なんですよ?その命にあってあなたは買い戻された。それがあなたにとっての善でないはずがないじゃないですか。

 

今つらい時代に私たちは生きているかもしれない。しかしそれでも、自分にとって良しにつけ悪しにつけ、神様に聞き従おう。神様の子のいのち、御子イエス様による救いを受け取り、このイエス様をあなたの内にお迎えし、「従うとき」、神様の御心があらわされる。今日、私たちは、本震から、神様の言葉がどんなものであろうとも、従おう。実現されるのは神様、御子イエス様のいのちをあなたの身代わりにされるほどに愛される神様。今日、この神様の御心がなることを期待し、祈ろう。神様が幸せにしてくださると信じ抜こう。