―迫る問題と途切れない援軍・時を悟る― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ダビデがキシュの子サウルのゆえに、まだツィケラグに引きこもっていたとき、ツィケラグの彼のもとに来た人々は次のとおりである。彼らは勇士たちの中で、戦いの加勢をした人々であり、弓を持った者、石投げ、弓矢に、右手も左手も使う者で、サウルの同族、ベニヤミンの出であった。…また、ガド人から離れて、荒野の要害をさしてダビデのもとに来た人々は、勇士であって戦いのために従軍している人であり、大盾と槍の備えのある者であった。彼らの顔は獅子の顔で、早く走ることは、山のかもしかのようであった。…これらはガド族から出た軍のかしらたちで、その最も小さい者もひとりが百人に匹敵し、最も大いなる者は千人に匹敵した。この人々は、第一の月、すなわちヨルダン川がどこの岸もいっぱいにあふれるとき、これを渡った者たちである。彼らは谷にいた人々を全部、東に西に追い払った。さらに、ベニヤミン族とユダ族からも、要害のダビデのもとに来た者があった。そこで、ダビデは彼らの前に出て行き、彼らに答えて言った。『もし、あなたがたが穏やかな心で、私を助けるために私のもとに来たのなら、私の心はあなたがたと一つだ。もし、私の手に暴虐がないのに、私を欺いて、私の敵に渡すためなら、私たちの父祖の神が見て、おさばきくださるように。』そのとき、御霊が補佐官の長アマサイを捕らえた。『ダビデよ。私たちはあなたの味方。エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。平安があるように。あなたに平安があるように。あなたを助ける者に平安があるように。まことにあなたの神はあなたを助ける。』そこで、ダビデは彼らを受け入れ、隊のかしらとした。ダビデがペリシテ人とともに、サウルとの戦いに出たとき、マナセからも、何人かの者がダビデをたよって来た。しかし、彼らはペリシテ人を助けなかった。ペリシテ人の領主たちが、『彼はわれわれの首を持って、主君サウルのもとに下って行くのだ』と言い、わざわざ彼を送り返したからである。…彼らは、マナセに属する千人隊のかしらであった。彼らはダビデを助けて、あの略奪隊に当たった。みな勇士であり、将軍であった。日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとに来て、ついに神の陣営のような大陣営となった。」

Ⅰ歴代誌12章1-22節

 

私たちには時に途切れることがなく問題や苦難が迫ってくるように感じることがある。これは正直に話しますが、神様を信じていてもいなくても同じです。しかし、神様はあなたに援軍を常に送ってくださっている。これを受け取るか否か、これが分かれ道となる。神様の時を悟り、神様の救いを待ち望もう。

 

さて、↑はバビロン捕囚後に、学者エズラがイスラエルが回復するために、もう一度神様はどんな方なのかを振り返り記された歴代誌、特に↑の部分ではダビデのフォーカスを当てています。ダビデというのは古代イスラエル王国の2代目の王です。

 

ただ、彼は本当に苦難の連続でした。そもそも彼は王族でも何でもありません。預言では彼の部族から王が現れる、と神様から約束されていましたが、今現実王なのは別な部族出身の人だった。そのような小さな部族ユダの、さらに末っ子。長子が尊重されていた時代において、彼は本当に低く見られていた。

 

しかしある日、当時中東を狙っていたペリシテが彼らを責め続けていた。そんな戦いの中、ダビデは巨人ゴリヤテに少年時代に勝利し、王に重宝され、王子にも認められ、ついには王女とも結婚するのでした。多くの勝利を治め、国に貢献していたのです。

 

ところが、このダビデに嫉妬した王サウルは、ダビデの命を狙い始めます。自分が神様から離れ、神様に見捨てられ、次の王をダビデにすることが決まっていた事もあるでしょう。また国の者は「サウル(現王)は千を討ち、ダビデは万を討った」と称賛の声が上がるものだから余計だったかもしれない。その嫉妬の思いにサタンが付け狙い、最も有能な部下だったダビデを失う形にサウルはなる。そうしてダビデも命を付け狙われていった。

 

↑はそんな頃の記録です。ちなみに、王になって後には息子にクーデターを起こされ、国から追いやられたこともあり、いのちさえ付け狙われていったこともある、本当に苦難の連続。勝利、祝福もあるけど、苦難も。ただ、問題なのは神様は私たちを恵まれ、守られ、導かれる、時に養い、守られ、勝利させ、かくまう場所を与え、知恵を与え、味方を与え…と神様ご自身は助けてくださっている、ということです。しかし、迫ってくる危機を見るとどうしても、神様は何もしない、と思ってしまう。

 

しかし、そんな王に、将軍たちに付け狙われている時でさえ、神様は援軍を送られるのです。↑の一番最後に「日に日に、人々がダビデを助けるため彼のもとに来て、ついに『神の』陣営のような大陣営となった」と記されているように、神様は次々とその助けを、必要を、恵みを送られる、途切れることなく私たちに援軍を送ってくださるのです。

 

この記録、「神の」陣営のように、とありますが、神様が陣営を張られる、この事実を私たちは忘れてはいけません。神様が、私たちの内に陣営を張られ、私たちのこの戦いにあって糧食を、陣営を、必要な武具を、味方を備えられる。「神様が」備えられたもので、あなたのいる陣営は満たされるのです。これを役立たず、と思って不安になるか、感謝し、勝利の革新を得、喜びの叫び、雄たけびを上げるか、それはあなたの決断次第。

 

↑を見ると信じられない事実も書かれている。数や、各部族からの助っ人はもちろんですが、なんと、現王サウルの出身部族のベニヤミン族からも神様の御心を求め、ダビデに助っ人に来てくれたのです。これほど力強い話はない。神様は、敵の兵力を弱めた。神様はただこちらの陣営を強めるだけではなく、問題を、サタンを、悪を、どんどんそぎ、弱めていくのです。

 

やがて終わりの時代にはサタンは最後の戦いを仕掛けてきますが、しかし、どんなに彼らが力を増し、私たちを追いかけてきても、神様の力は彼らを最後打ち破るのです。どんな艱難時代が来ても。その時、あなたが神様をあなたの陣営に迎え入れるか否か、それが最も重要。

 

別にダビデは、自分の味方になるなら面倒見るけど、敵になるならどうなっても知らないからな、と脅しているわけではないんです。ダビデは「もし、私の手に暴虐がない」なら、と言っています。それすなわち、もしそおのようなものがあるなら、裁かれることだろう。今神様が動かれている、サウルの手によって国が壊れている(神様から離れていたため、その敵ペリシテは迫り、国は苦しんでいた)、その中に神様の御国がなろうとしている。

 

だからこそ、穏やかな心で神様の御業がなることを、その時を待ち望もうじゃないか、と声をかけているのです。私の敵になる、味方になる、じゃない、神様の味方というか、従う者たろうじゃないか、その時神様のお心があなたと一つとなる、と。

 

その時、「私たちはあなたの味方。エッサイの子よ。私たちはあなたとともにいる。平安があるように。あなたに平安があるように。あなたを助ける者に平安があるように。まことにあなたの神はあなたを助ける」という彼らの御霊から得た言葉が私たちの内に成就するのです。

 

神様は、あなたと敵対するために来られたのではなく、罪の中に、神様から離れる、本来神様の敵であったはずの私たちを救い、味方、神様の子として迎え入れるために、私たちの罪を御子イエス様に身代わりに背負わせ、十字架に架け、死なせたのです。ありえない話です。

 

しかし、あなたがこの神さまの愛、救いに対して敵対するのではなく受け入れる時、私たちの内に神様の平安が、お心があなたの内になり、神様の大陣営があなたの内に張られる、復活のイエス様があなたの内に住まわれ、あなたの道々を導かれるのです。

 

「日に日に、あなたを助けるため彼のもとに来て、ついに神の陣営のような大陣営とな」るべく御子イエス様が命までかけられたこの神様の愛、今日あなたはどう受け取るだろう?どう応答するだろう?