―祝福された人…のはず― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「これはアダムの歴史の記録である。神は人を創造されたとき、神に似せて彼を造られ、男と女とに彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、その名を人と呼ばれた。アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。アダムはセツを生んで後、八百年生き、息子、娘たちを生んだ。アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ。セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。セツはエノシュを生んで後、八百七年生き、息子、娘たちを生んだ。セツの一生は九百十二年であった。こうして彼は死んだ。…エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。メトシェラは百八十七年生きて、レメクを生んだ。メトシェラはレメクを生んで後、七百八十二年生き、息子、娘たちを生んだ。メトシェラの一生は九百六十九年であった。こうして彼は死んだ。レメクは百八十二年生きて、ひとりの男の子を生んだ。彼はその子をノアと名づけて言った。『主がこの地をのろわれたゆえに、私たちは働き、この手で苦労しているが、この私たちに、この子は慰めを与えてくれるであろう。』レメクはノアを生んで後、五百九十五年生き、息子、娘たちを生んだ。レメクの一生は七百七十七年であった。こうして彼は死んだ。ノアが五百歳になったとき、ノアはセム、ハム、ヤペテを生んだ。」

創世記5章1-32節

 

神様は、私たちを、ご自身に似せて造られた。これは大きな愛です。何か適当につくったとか、誰かに作らせたのではなく、神様ご自身が、あなたを造られた。その時、神様は私たちを祝福された。私たちは神様に祝福を受けるべく造られている存在であることを今日、忘れてはいけない。この世の何があなたを崩そうとも。

 

さて、↑は聖書の中の創世記、という中に書かれたもの記録です。創世記はモーセが編纂した、と言われているのですが、実際のところ、訳を見てみると、「book」、アダムが残した本。その時代の記録、とも読み取れる。それを最後にモーセがひとまとめに、創世記~申命記を律法の書、としてまとめたのではないか。

 

ちょっと固い話を書いてごめんなさい。ただ、こんな家系図だらけの記録、こんなものをなぜわざわざ残す必要があったのか、それを考えると、今の話は欠かせないのです。もともと私たちの先祖は、猿ではありません。アダムとエヴァです。進化論は日本ではなぜか未だに提唱されていますが、とっくに「科学的にも」否定されていますので。

 

アダムとエヴァの子孫。じゃあ神様はどのように造られたのか。何か適当な存在、としてではなく、「神様の似姿=イメージ」に造られた、というのです。神様のあなたへの思いが詰まり、こめられていた、ということですね。神様は一人一人にイメージをもって造られたんです。

 

しかも、ただ造って終わり、あとは勝手に生きてね、とは言わなかった。ご存知神様は、アダムとエヴァをエデンの園に置かれました。すべての食べ物も備え、環境も完全な状態で備えた。ところが、サタンの誘惑もありますが、自分が神のようになることを選び、神様から離れた、悔い改めの機会も逃した彼らはエデンの園を追放されたのでした。

 

彼等は神様のくださったものを疑ったのです。神様がくださっているものが自分に最高のものではない、神様は私に必要なものをくれていない、と。これ、私たち人間も同じ感覚に見舞われますよね。罪が入ったのはアダムたちのせい?いえ、彼らが罪をこの時犯さなくても、結局私たちは同じように罪を選んでしまう。怖いものです。

 

しかし、神様は、↑にあるように、アダムはエデンの園から追放された後もなお、こう書き残した。「彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して」と。誰か口伝で仮に伝えていたとしても、そのように伝えた。彼らの子孫に。神様は、それでも私たちを祝福してくださっていたんだ、と。神様は最高のものを本当は備えて下さっていたのに、自分たちは離れた。でも神様は見捨てていなかったのだ、と。だから、この神様から離れてはいけない、そう残したのです。

 

家系図が大事だから、というだけなら、↑の一番最初の部分ははっきり言っていりません。しかし、これこそがカギなのです。神様は、エデンの園から追放された後でも、食べ物も与え、↑の家系図で見るように多くの子孫を与えられた。ただ無駄に長い寿命ではなく、その一年一年素晴らしいものだった、その事を知っている、体験した故に、家系図だけではなく、↑の様に、「祝福された」、私たちを神様は祝福し、その愛を注がれ養われ導かれているんだ、と子孫子孫に書き残したのです。

 

アダムは、自分たちの子供は「彼に似た、彼のかたちどおりの子」であった、と残します。神様は、もう裏切ったアダムの子たちは適当に、ぞんざいに扱う、アダムたちは最初の存在だから仕方ない、ではなく、一人一人に神様は、同じように、その愛を注ごうとしているんだ、と。神様の似姿、イメージ、愛を注ぐべくそのいのちを、与えているのです。

 

皆さん、皆さんのこんにちはこの神さまの愛によって生かされているんです。これ、忘れないでくださいね。神様のご性質をあなたにも分け与えられているのです。これこそ、神様の意思です。

 

正直、このアダムの子孫たちはだんだん神様から離れ、↑にあるエノク以外はみな死んでいきます。さらには、ノアの時代には、あまりに罪深く、目も当てられない世の中になってしまったために、神様は滅ぼす決断をされる。そんな混とんとした時代にある。ただ、その中にあって、神様の御目が注がれているのです。私たちの今の時代、混とんとしていますねでも、その中にあっても神様はその目を注がれ、それでもあなたの内に神様のご性質、愛を、御力を、御心を現したい、と願っているのです。

 

神様は、エノクが365歳になったある時、神様に立ち返った、神様と共に歩みたい、と神様を求めた、その彼を神様は喜ばれ、共に歩まれた、というのです。死という悲しみは取り去られ、死ぬことなく神様につながれ、神様の愛が注がれていた、ここに神様は私たちを招きたい、これが神様の願う祝福なのです。

 

そして、ノアのように、神様はその混とんとした時代の中にあっても守られる、ノアの箱船を通して救い出す。神様の素晴らしい恵みの中に、天の御国に、神様の救いへと導かれる。試練の中にあっても神様は一緒にあって突き進み、新しい神様のご計画の内に導かれる。神様は私たちの手をつないで、導かれるし、神様の思いはあなたにつながっている。本来断ち切られるはずのところ、神様は、系図を切らなかったように、あなたを神様の家族の系図から断ち切ることなく、ご自身の家族の系図に加えようとされた。あなたに祝福を注ぐ、愛を注ぐ、その対象、家族、子として。

 

そのために、御子イエス様を私たちの罪の身代わりに十字架に架けられ、死なれた。しかし3日目によみがえられたことによって、私たちの罪を赦され神様のことされたのです。神様は祝福したい、その愛の形を具体的に表すべく、イエス様のいのちを私たちに注ぎ、その上であなたの上に神様の恵みが愛が、注がれる。この復活のイエス様と共に、その愛、御心によって、神様の祝福の姿に、イメージがあらわされていく。

 

ちなみに、この系図の名前一つ一つを並べ、訳すと、こんな意味になるそうです。「人間は罪を犯し、神様の休息から離れてしまいましたが、神様ご自身が天から私たちのところに降ってこられ、イエスキリストの十字架・死によって再び神様の休息、永遠の命に引き戻してくださった」この約束はあなたにも与えられ、子の祝福はあなたにも注がれ、神様の家族にあなたの名前もここに刻まれて、覚えられている。今日、私たちは、この命にあって生かされていることを覚え、神様のくださるイメージ、計画に従い歩もうではありませんか。