―置かれた命の道と死の道― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカデネザルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。こうして町はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていたが、第四の月の九日、町の中では、ききんがひどくなり、民衆に食物がなくなった。そのとき、町が破られ、戦士たちはみな夜のうちに、王の園のほとりにある二重の城壁の間の門の道から町を出た。カルデヤ人が町を包囲していたので、王はアラバへの道を行った。カルデヤの軍勢が王のあとを追い、エリコの草原で彼に追いついたとき、王の軍隊はみな王から離れて散ってしまった。そこでカルデヤ人は王を捕らえ、リブラにいるバビロンの王のところへ彼を連れ上り、彼に宣告を下した。彼らはゼデキヤの子らを彼の目の前で虐殺した。王はゼデキヤの目をつぶし、彼を青銅の足かせにつないで、バビロンへ連れて行った。…ユダの王エホヤキンが捕らえ移されて三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、彼が王となったその年のうちに、ユダの王エホヤキンを牢獄から釈放し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた。」

Ⅱ列王記25章1-30節

 

神様は、いつでも渡した詩たちの前の前にいのちの道を用意してくださっている。置かれている。世は、私たちが悲しみに進む道を用意している。しかし神様はそのど真ん中に、脱出の道、救いの道を用意されている。それが一見狭い門に見えても。私たちはこの神様の救いの道、命の道を日々選び、また歩み続けよう。

 

さて、↑は紀元前586年、そう、バビロン捕囚によるエルサレム壊滅の年の出来事。ずっと読んできてくださった方はわかると思いますが、神様はどの王に対しても、救いの道、命の道を常に示されていた。悔い改めれば神様のいのちにある繁栄を受け、神様の御心という最高のものをいただき幸せを得ていた。確かに多くの国々による苦しみなど様々あったかもしれない。でも、神様はいつでも神様のもとに帰る人をかくまい、守られていたのでした。

 

神様は不幸を与えない。ただ、人間が、その罪ゆえに私たちを神様から引き離す、恵みから引き離す道を選び取って、より苦しみの内を歩む。でも、神様はその中に降ってこられ、私たちを脱出させ、神様の御心を体験、その中に生かされるのです。その愛の中に。

 

↑はバビロン捕囚。その時いったい何があったのか?捕囚にあうのに、どうしてその道が幸いと言えるのだろう?実は二人の王はそれぞれ別な道を選択した。↑に出てくる最後の王、ゼデキヤに対し、神様はエレミヤを通して、「見よ、私はお前たちの前にいのちの道と死の道を置く。都に留まるものは戦いと飢餓と疫病によって死ぬ。降伏するものは命だけは助かる」と語られていました。何度もエレミヤを通して知恵、救いの道を用意されていた。

 

一見すると敗北の道。それの何が命の道なのか?命さえ助かればそれでいい?実はこのバビロン捕囚を通して神様は彼らを養い、神様の恵みを知り、民が回復していく、その道へ神様主導で導かれていた。ょっと厳しい裁き、試練を通ることにはなる、でもその中で神様は多くの助け人を置きながらイスラエルを事実守ってくださっていたのです。宦官にダニエルなど、また開放時には、クロス王、それを助けるネヘミヤやエズラ…あげれば上げるほどきりがないほど。

 

神様が命の道、という、それは神様が備えて下さっている道。たとえ苦難の道があろうとも、神様がその道を導かれ、一緒に進まれるのです。↑の前半、ゼデキヤの最後は目も当てられないほど、あまりにひどい最期だった。

 

じゃあ一方で、彼の前の王、エホヤキン、ゼデキヤのおじはどうだったのか?それが↑の後半。彼は後に新しい王によって牢から釈放された。その王は「エホヤキンを牢獄から釈放し、彼に優しいことばをかけ、彼の位をバビロンで彼とともにいた王たちの位よりも高くした。彼は囚人の服を着替え、その一生の間、いつも王の前で食事をした。彼の生活費は、その一生の間、日々の分をいつも王から支給されていた」というのです。敵国の王ですよ?その男を中心に反逆に出てくる恐れだってある。

 

しかし、神様がその王に憐れみの心を与えたのです。普通では考えられないこと。囚人服を脱がせてくれて、他の王たちよりも高く位につけ、一生王と共に食事をし、その生活費さえ支給してくれた。いつも、その王を通して神様が「養った」ありえない話です。そこまでする義理がどこにありますか?

 

しかし、神様は、私たちが死の道を歩き続ける事をよしとなどできないのです。死の道は「神様が」用意されているのではない。神様から離れている道が死の道なのです。神様の御手が伸ばされず、ただ世の悲しみや痛み、罪、サタンの、支配する。私たちは別に生きてさえいればどうだっていい、と思うかもしれない。神様なんていなくても、普通に、と。でも、そこに何のいのちがあるだろうか?そこにいのちがあるだろうか?これまで歩んできた私たちの道がいかにむなしいか、それが今回のコロナで感じないだろうか?最後はゼデキヤのように大切なものをすべて奪い去られていく。

 

しかし、神様は私たちの中では神様が働いていない、と思える中においていつもその御手を伸ばされ、助け手を置かれ、また養われる。私たちが勝手に神様など信じたって何にもならない、と思い、けなしている一日一日の中に、今与えられているものの中にあって神様は十分恵みを注いでくださる。↑のエホヤキンのように、逆に神様は失うものではなく、神様のあふれんばかりの恵みを日々日々注ぎたいのです。

 

イスラエルの2代目の王、ダビデは若い時か、このような詩を歌っています。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう」。

 

神様は本来私たちが死の陰の谷間を歩く、神様から離れた死の道を歩むときにさえ、神様がそこから導き出され、生き返らせてくださる。神様の恵みによって。敵の前、と思う中に神様は全ての必要、養いの食卓を備えて下さるのです。

 

その究極に神様は御子イエス様を私たちのために与えてくださった。本来、私たちはバビロン・もといサタンの手に、死の内に降っていかなければならなかった。その罪ゆえに見捨てられ。しかし神様はその死の道からあなたを命の道へと導くべく、魂を生き返らせるため、御子イエス様を身代りにその罪の罰とし、死なせたのです。とんでもない愛を示された。しかしその十字架の死と復活によって、イエス様の前に悔い改め、救い主として信じるすべての人の囚人服、罪、悲しみ、サタンの呪い、一切を脱がせ、新しい神様の子としての王服を着せていただけるのです。

 

この十字架からいのちの道と死の道が分かれ置かれている。どちらを選ぶかは神様は強制しないけど、あなたにいのちの道へと導くため、神様は御子イエス様のいのちさえ惜しまず与えることができるほどにあなたに愛を注ぎたい、と今日待っている。やがてエホヤキンの子孫が捕囚から解放後にまた国を建てていくように、神様が私たちの内に新しい王国、御国を建てあげ、導かれる。あなたの一生を神様が日々日々。今日、私たちはこの命の道を選び取らせていただこうではありませんか。