―ただ我慢・待つのではなく― | とある働き人の聖書のお話

とある働き人の聖書のお話

東京で牧師をしておりました。
7年前子供が小学生に上がるまで離れていましたがぴったりの時に新しい働き(子ども関係)に招かれ、伝道させていただいています。

「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」

「ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。そこでユダの王ヒゼキヤはラキシュのアッシリヤの王のところに人をやって、言った。『私は罪を犯しました。私のところから引き揚げてください。あなたが私に課せられるものは何でも負いますから。』そこで、アッシリヤの王は銀三百タラントと、金三十タラントを、ユダの王ヒゼキヤに要求した。ヒゼキヤは主の宮と王宮の宝物倉にある銀を全部渡した。そのとき、ヒゼキヤは、ユダの王が金を張りつけた主の本堂のとびらと柱から金をはぎ取り、これをアッシリヤの王に渡した。」

Ⅱ列王記18章13-16節

 

私たちはどんなに強がったってどうにもならないことはある。いいんですよ、強がらなくても、人間ですから。こんなご時世、私は大丈夫大丈夫、と気を張り続け「自分で」頑張り続けたら倒れてしまう。でも、神様は決して敗北されることはない。誰が離れようとも神様がいる、このことをどうか忘れないでください。

 

さて、↑は紀元前715年の中東・イスラエル・南ユダ王国での出来事です。すでにアッシリヤ帝国は覇権を握り、北イスラエルを捕囚し、今、南ユダにまでその脅威が迫っていました。↑のヒゼキヤの父、アハズは、とりあえず金銀を貢いで、自分たちをその脅威から守っていた。他国から責められている時、どうか協力してほしい、と金銀をもって協力関係を持っていた。

 

ただ金の切れ目は縁の切れ目、とはよく言ったもので、息子のヒゼキヤの世代になったとき、ヒゼキヤは我々は神様に信頼し従おう、アッシリヤの神々の偶像や、こびへつらう場所など残しておいてはならない、と高き所を取り除く、壊すのでした。

 

そうして彼等はアッシリヤに頼らなくても、彼らを討とうと迫るアラムも、ペリシテも、それでも打ち破った、その領土を回復させていきました。彼らが強かったからだろうか?歴史を知る人は、当時のアッシリヤの脅威がどれだけの物かご存知でしょう。

 

でも、神様が味方なら、神様が働かれるなら、強くなれる。というよりも、神様が戦われるから、彼等は強かった、勝利を治めていた。この神様を信じるか否か、これこそ知恵、と神様ご自身を求めるか。全然変わってくる。実はこの先の戦いで、そのありんこと思える南ユダ・四国くらいの大きさしかない国家が、アッシリヤを打ち砕くのです。

 

ただ、私たちは歴史の記録を知っているから、やがて勝利の日が来ることを知っている。でも彼らは現実問題、そんな事など知らない。彼らは特に、南ユダは北イスラエルの、兄弟国の滅亡を見ていた。ヒゼキヤの父アハズの世代は、この北イスラエルの武力の脅威にもさらされていた、その北イスラエルが敗れた。それは非常事態そのものだった。それでも、彼等は北イスラエルの捕囚からも7年間、がんばり続けた。でも、彼等は限界が来た。そしてついに、↑でヒゼキヤは、私たちが間違っていました、と降参するのです。あなたの求めるものは何でも差し上げますから、攻めてこないでください、と。

 

それでも耐え続けている、と思う。よく頑張っている、と思う。私たちも今ならわかるのではないだろうか?先の見えない、コロナがいつ終わりが来るかわからない今の状況にあって、どこまで耐えたらいいのか?でもこれを支えていたのは、神様だった。神様は勝利の日まで向かわせて下さる。いつ終わるかわからない中で、私たちが孤独なのではなく、神様が一緒だということを私たちは忘れてはいけない。自分一人で頑張ることほどつらいことはない、でも神様は、あなたの見えない中で支えてくださっている、今押しつぶされそうになっていようとあなたが今日生きているのは神様の助けなしには生きられない。

 

ヒゼキヤとしては、王として国民を守るために、自分のプライドを捨ててアッシリヤに屈して国民を守ろうとしたのかもしれない。これは正直分からない。これはある牧師の見解。それに前々回の投稿でも見ましたが、あんな信仰熱心だったヒゼキヤがどうして屈したのか?ちょっと理解しがたい。でも、人は弱い、いつも完璧足りえない。だから、私たちは神様に頼らなければいけない。神様はあなたを助けたいと、その御手を伸ばしているのだから。

 

ちょっと横道にそれますが、私は「銀三百タラントと、金三十タラント」によってアッシリヤと一時的な契約を結んだ、ということに少し恐怖を覚える。というのも、実は終わりの時にサタンが仕掛けてくること。一時的な平和を、和平をイスラエルと妥協をもって結んでくる。そして、イスラエルやキリスト教徒たちの信仰を弱体化させ、そしてのちに一気に大軍をもってこれを打ち破りに来る。

 

そうなってくると、↑のヒゼキヤの行動が、ただしょうがないよね、完璧じゃないし、人間弱い時もあるよ、で済ませてはいけない気がするのです。私もこの個所を最初読んでいた時にそう思って、今日の結論を、だから神様を待ち望もう、で締めようと思っていた。でも、これはそれどころの騒ぎではないのです。

 

そのまま行って、仮に問題が解決しても、あの時神様は何もしてくれなかった、という疑念が残り、神様との関係にひずみができてしまう。確かに目に見えた苦難はある。イエス様も、私たちは世にあって迫害があることを明確に述べています。神様を信じていても。でも、大きな違いは、その中で神様は働かれている、それを信じ、信頼するか?神様の知恵に従い、決断するか、そこにある。

 

私たちは、確かに苦難の時ある程度頑張る。でも最後は疲れてしまう。あきらめる。ここは「我慢しよう」で。でも、我慢するのと、神様を求めるのとでは、その道を通る時に違う。神様はその御力を現されるのですから。世は、サタンは、私たちの心をこうした苦難の中を通して弱体化させようと付け狙う。あなたの神殿の金、銀、そうしたものを差し出せば助かるじゃないか、神に祈ったって無駄、聖書を読んだところで難になる?と。

 

でも、むしろ今こそ、私たちはつかみ取らなければいけない。神様の御心を、いのちを。あなたの霊と真・心、すべてを神様の御前に、サタンや霊的なアッシリヤに、ではない、神様に私たちは捧げようではありませんか。その時得るいのちは、一時的なものではない、神様の御心、愛、命があなたを覆い、守り、導かれる。この契約はサタンや↑のアッシリヤ、世、様々な苦難のように決してあなたを裏切ることはありません。

 

神様は、私たちに帰ってきてほしいのです。この命を得てほしいのです。昨日の夜の投稿で書きましたが、私たちの本当の霊的な回復、癒しは「悔い改め」から始まるのです。御子イエス様はあなたを救うためなら、金銀どころか、ご自身のいのちを差し出された。私たちの罪、いのちの身代わりに、ご自身が十字架で罰せられ、死なれたのです。しかし3日目によみがえられたことによって、この契約・救いは完成された。私たちがイエス様の前に悔い改める時、私たちは神様と結ばれる。御子イエス様のいのちにあって。悔い改めは罰ではない、むしろ命へと導くもの。神様が御子イエス様のいのちを差し出された、その愛そのものなのです。

 

世は、サタンはあなたに魂を、心を差し出し、取り崩していく。でもイエス様のいのちにあって結ばれるとき、減るのではなく、神様の恵みが、愛が、御力があなたの内に増し加わり、その栄光は、全地に広がる。神様の御国が広がっていくのです。ありと象に見えても、神様はもっと大きい。そして神様は神様の子としてあなたを引き上げてくださるのです。奴隷じゃない。息子として。その息子に、御子イエス様ゆえにあなたに、その愛を今日もあらわされる。

 

ただ待つ、とかただ我慢するのではなく、今こそ私たちは神様との関係、神殿を築き上げよう。イエス様をあなたが救い主として受け入れるなら、あなたの内にイエス様が住まわれ、イエス様があなたのうちに、その御心によって建てあげられる。この命の日々を歩み続けよう。この日々は我慢ではなく、神様が与え、導かれるものだから。